≪整心科学研究所(埼玉県上尾市)≫

自己治癒力により心身を整えていく。量子力学・宇宙物理学・脳科学の観点から精神を捉えた新しい科学に基づいた療法を研究、実践中です。
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    427) 環境を変えると自分が変わる
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      シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の楽歩愛真です。
      なぜ、どうしてとの疑問を持ち、納得のできる答えを知りたいと考えている人にとって、精神分析という対話療法は有効な方法です。

      今日は、「環境を変えると自分が変わる」 について書きます。

      『孟母三遷』という言葉があります。
      これは、 「子供は周囲の影響を受けやすいので、子供の教育には環境を選ぶことが大切であるという教え。」と辞書にあります。
      子どもに限らず人は環境が変わると知らないうちに変わっていくようです。
      では、どうして環境が変わると人は変わるのでしょうか。
      ここでは、身体に受ける刺激が変わるという観点から考えてみたいと思います。 

      人は日々刻々と変わる刺激を身に受けて暮らしています。
      経験したことのない刺激に対しては意識するけれど、慣れた刺激に対しては意識しなくなるといわれます。
      つまり、慣れた刺激に対してはその都度意識しなくても身体が勝手に反応するようになっている。
      逆に、慣れない刺激に対してはその都度意識し、それに対する反応を模索するといえます。

      ここから身体に受ける刺激を変えるとそれに対する反応が変わる。
      反応が変わると結果的に行動が変わることになります。
      刺激を変えるには例えば環境を変えればいい。
      つまり、「環境を変えれば自分が変わる」ということになります。

      こうして環境を選択することで自分を意図的に変えることは可能だと考えます。
      他にも『朱に交われば赤くなる』『旅の恥はかき捨て』などがあります。
      これらからも、人は環境に左右されやすい、環境によっていかようにも変われるといえるのではないでしょうか。

      自分を変える方法は数多あると思います。
      ここでは、環境を変える=刺激が変わる=反応が変わる=行動が変わる=自分が変わるとの観点から書いてみました。

      twitterでは随時気づいたことを投稿しています。
      興味を持たれた方はアクセスしてみてください。https://twitter.com/rakuhomanami  

      | 家族 | 11:45 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
      424) 鏡の中の私
      0

        シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の楽歩愛真です。
        なぜ、どうしてとの疑問を持ち、納得のできる答えを知りたいと考えている人にとって、精神分析という対話療法は有効な方法です。

        今日は、「鏡の中の私」 について書きます。

        目は目そのものを見ることは不可能。だから人は鏡に映して見る。
        毎朝鏡を見て化粧したり、洋服を選んだりしている。
        それでも時々、鏡に映して確認している。
        街のショーウインドーに映った自分の姿を見る。
        鏡に映った自分の姿や顔を見て何をしているのでしょうか。
        どうやら自分のイメージ通りになっていることを確認し、安心しているようです。
        つまり、自分が想像している姿と鏡に映る姿が一致していることの確認をしている。
        それほど、人は自分の見え方を気にしているといえます。
        一日のうち、どれほど自分の姿を見ているでしょうか。
        どうしてそんなに見るのでしょう。

        人の目が気になる。
        人がどう思っているか気になる。
        何か言われるのではないかと思うと人の中に出ていけない。
        このように語る人たちがいます。

        なぜ人は、それほどまでに他者の目を気にするのでしょうか。

        こうのように考えていると、鏡の中の自分の姿とそれを見ている自分の関係は、自分と自分を見ている他者の関係に重なってきます。
        つまり、鏡=他者。人は他者の中に自分の姿を映していると考えられます。
        もっというと、人は他者を見ているのではなく、他者の中に映る自分自身を見ている。
        他者がどのように見ているか=自分の姿
        他者に良く見られたい=良い私
        他者に好かれたい=好かれる私 etc
        だから人は他者の目を気にする。

        こうして、私たちは他者という鏡の中の私を見て生きている、他者という自分の姿に翻弄されていると言えるのではないでしょうか。

        シニフィアン研究所  http://signifiant-lab.com/
        Twitter https://twitter.com/rakuhomanami 

        | 家族 | 15:40 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
        420)根無し草(デラシネ)&関西出張のお知らせ
        0

          シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の楽歩愛真です。
          なぜ、どうしてとの疑問を持ち、納得のできる答えを知りたいと考えている人にとって、精神分析という対話療法は有効な方法です。

          今日は、「根無し草(デラシネ)&関西出張のお知らせ」 について書きます。

          デラシネとは、辞書によると「根無し草のことで、転じて故郷や祖国から切り離された人」とのことです。ここではこの意味を転じて、「心の居場所から切り放された人=居場所がないと感じている人」として考えてみることにします。 

          「どこにも自分の居場所がない」
          このような表現を聞くことがあります。
          物理的に居場所と定められた場所があっても、その本人が自分の居場所だと実感しない限り、意味をなしません。
          つまり、居場所があるとは、「ここが自分の居場所だ」と感じる場所があることを指します。この意味において、根無し草(デラシネ)とは「心の居場所がないと感じている人」となります。

          ここが自分の居場所だと感じるとはどういうことでしょう。
          居場所があるとは、自分が居る居ないに関わらずその場所が確保されているということ。
          いつでも自分の座る場所が存在するということではないでしょうか。 
          自分が気ままに行っても、常にその場があること、あるいはそのように思えること。
          もっというと、自分の気ままにしても許される場があるということ、歓待される場があることだと考えます。
          たとえ離れていたとしても自分には帰る場所があると思える。 このような場があると思える時、人は「自分の居場所がある」というのでしょう。

          それとは逆の場合を根無し草(デラシネ)といいます。しっかり根を下ろしたいと切望しつつ、どこにも自分の居場所がないと感じ、結果的に放浪することとなる。

          以上のことから根無し草(デラシネ)人には「定着」という言葉の意味が理解できない可能性があります。なぜなら、「定着」とはしっかりとつくこと、一定の場所に落ち着くことという意味だからです。

          では、定着するにはどうしたらいいのでしょう。
          それにはまず、自分の場所(席)を作ってもらうことからスタートです。
          すべてはそこからです。それができないとその先はないといっても過言ではないでしょう。 

          蛇足ですが、「定着」以外にも「着」のつく熟語を調べてみると、密着、帰着、決着など興味深いものが出てきます。
          興味のある方は一度検索してみてください。

          ______________________________________

          ≪9月度関西出張のお知らせ

          *1日(火)〜3日(木) 大阪市・和歌山市

          面談・インテグレーター養成講座・≪人間講座−象徴界に生まれる≫・フリートーク(テーマは『分かち合う』 )

          *8月31日(月)・9月4日(金)埼玉県大宮市

          詳しくは、シニフィアン研究所のHP http://signifiant-lab.com/  Twitter https://twitter.com/rakuhomanami、を参照、連絡ください。

          | 家族 | 10:57 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
          403)ダイエットと言語−言語でやせる
          0

            シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の楽歩愛真です。
            なぜ、どうしてとの疑問を持ち、納得のできる答えを知りたいと考えている人にとって、精神分析という対話療法は有効な方法です。

            今日は、「ダイエットと言語−言語でやせる」 について書きます。

            「ダイエット」と聞いて興味を持つ人、かつて挑戦した人はかなり多いのではないでしょうか。
            ところがなかなか成功しなかったり、続かなかったり、リバウンドしたりなどなど。

            ここで、先日ある人から聞いた体験を紹介します。
            それは表題にも書いたように「言語でやせる」です。
            それにはただ一つのことを実行し、継続することだそうです。
            それは、
            ≪食事の度に『いただきます』と『ごちそうさまでした』を声に出して言うこと

            これなら簡単、すぐに実行可能です。あるいは、もうすでに実行している人もいるでしょう。
            では、食事の度に声に出して言うことがどうしてダイエットに繋がるかを考えてみます。

            要因は二つ。
            一つは「声に出して言う」もう一つは「区切る」です。

            最初に「声に出して言う」から考えます。
            声に出して言うことは、誰よりも声を出した本人が聞きます。
            頭の中で思い浮かべるだけではすぐに消えてしまう可能性が大きい。
            思い浮かべたことを声に出して言ってみることで、自らの耳で聞いて再確認することになります。
            語った自分の言葉にハッとした経験のある人も多いのではないでしょうか。 
            このように、声に出すことによって自ら再確認する効果の可能性が考えられます。

            次に「区切る」を考えます。
            区切るとは、食べている状態を切る=食事は終わりということです。
            これは、いただきます= 食事の開始を意味し、ごちそうさま=食事の終わりを意味するということです。
            ここである人のエピソードを紹介します。

            ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

            半信半疑で聞いたことを実行し始めたある日のこと。
            いつものように食事に続いてお菓子を食べようとした時、突然、その人の脳裏に
            「あ、そうだ、私はもう『ごちそうさま』と言ったんだ」と蘇ったと同時に伸ばした手を反射的に引っ込めたそうです。
            この時、その人は半信半疑の気持ちが納得に換わったと語りました。
            それからは、以前に増して、かみしめるように毎回大きな声で
            『いただきます』と『ごちそうさま』と言うようにしているとのことです。 

            ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

            毎回このように手が引っ込められるとは限りません。
            ですが、毎回言葉に出して言うことで、「食事をしている自分」と「食事を終えた自分」をしっかり区切ることがその結果として体重減少という現象をもたらすのだと考えます。

            以上のように、言語が身体に大きな影響を及ぼす好例を紹介しました。
            まず「言語(言葉)ありき」
            その言語をどのように決め、使うかによってその結果が違ってくると考えます。

            Twitterでも日々つぶやいています。https://twitter.com/rakuhomanami
            興味を持たれた方はシニフィアン研究所のHPも参照ください。http://signifiant-lab.com/

            | 家族 | 15:46 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
            382)早期に人生の決断をしている
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              シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の真道満喜(しんどうまき)です。
              精神分析という対話療法で自己(無意識)を知り、必要に応じて書き換えませんか。
              そうすれば、不安は安心に変わり、生きる希望が湧き、しあわせ入れ放題・つかみ放題だと実感することでしょう。

              今日は、「早期に人生の決断をしている について書きます。

              人は成長の過程で、その都度その人なりの決断をして生きています。
              しかしその決断は、幼少期にしたそれの反復であり、そのプログラムに気づかない限り変更されることはない。
              つまり、あるエピソードを通して決断したプログラムに従っていく という一例を紹介したいと思います。

              ある人が「私は貧乏でお金の苦労をしてきた。なのになぜか、お金を欲望しなかった。」と語りました。
              通常、お金で苦労したら、お金が欲しい、お金持ちになりたいと思うのは納得できることです。
              ところが、その人はそう思わなかったというのです。
              本人も不思議だと思っていたそうです。

              ある時の分析場面で、その理由が明らかとなりました。
              というのは、ある幼少期のエピソードを思い出したからです。
              内容はさておき、その時その人が思ったことは次のことでした。

              ≪お金を貯めたら、必ずなくなる。≫

              当然、このエピソードはその時を限りにすっかり忘れ去られていました。
              数十年を経て、ある時の分析の語らいの場で思い出されたのです。
              このことを語った瞬間、その人は叫びました。
              「あの時に私はお金を貯めることを止めたんだ。」
              そしてその人は理解しました。
              なぜ自分がお金に困りながらも決して欲望もせず、貯めようともしなかったかということを。
              まさしく長年の謎が解けたのです。

              分析家に語るという行為の中で、自らの謎に自らの語らいで気づいていく。
              もっというなら、自らの謎を自らが解いたのです。
              同時にその人は、人生の早期にあるエピソードをきっかけに、自分の人生を決定してしまうことがあることを教えてくれました。
               

              語ることは自らの無意識に気付く有効な手段の一つです。
              自分を知ることを厭わない方、」興味を持っている方は語ってみませんか?
              長年の自分の謎が解けるかもしれません。

              シニフィアン研究所のHP http://signifiant-lab.com/ を参照ください。
              Twitter https://twitter.com/sindoumaki  でもつぶやいています。 

              | 家族 | 16:31 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
              360)だましのテクニック―言語の威力
              0

                シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
                精神分析という対話療法で自己(無意識)を知り、必要に応じて書き換えませんか。
                そうすれば、不安は安心に変わり、生きる希望が湧き、しあわせ入れ放題・つかみ放題だと実感することでしょう。

                 今日は、「だましのテクニック―言語の威力」 ついて考えてみます。

                オレオレ詐欺、振り込め詐欺など、詐欺被害が横行している昨今です。
                どうして人はだまされるのでしょうか?
                それは言語の威力(言語に隷属しているから)だということを考えてみたいと思います。

                例えば、「有名ブランドの紙袋」の話です。
                ある女性に聞いた話です。
                毎日お弁当を、高級ブランドの紙袋に入れて通勤しているのだそうです。
                彼女曰く、「だって、中に高級ブランド商品が入っているように見えるでしょう。もしくは、そこでお買い物をしてる人だって思うかもしれないでしょう。」(ちなみに、それらの紙袋がネットオークションでも売買されているそうです)


                彼女は何を語っているのでしょうか。
                これは、紙袋に書いてある文字やロゴマークから連想するものと、実際の中身が違っています。
                そして、そのことで中身に関係なく、紙袋が高級ブランドの商品を連想させるというのです。
                もちろん、すべての人がそのように考えるとは限りません。
                が、少なくとも、その高級ブランドに関心のある人は何らかの思いを持つことでしょう。
                彼女は意図して持っていたようですが、意図しなかったとしても同じように思う人が少なからずいるでしょう。
                つまり、意図するしないに関わらず、紙袋の文字やロゴマークなどがその中身を指し示す機能を持っているということです。

                もう一例。
                スーパー銭湯が盛況だそうですが、その入り口には「のれん」が掛かっています。
                そして、のれんには「男湯」「女湯」と書かれているのを知っています。
                あるスーパー銭湯では、日時によって交代するのだそうです。
                その時、どうするのかというと、「のれんを交換する」のです。
                つまり、それまで「男湯」だった湯舟が、その瞬間に「女湯」に変わるのです。
                当然、私たちは「のれんの言語」に従って入って行きます。
                ここで、万が一間違っていたらどうなるかは、想像に難くないでしょう。

                これこそが、まさしく「だまされる」可能性が口を開けて待ち受けている場(穴)、時ではないでしょうか。

                私たちは、その中身が何であるかよりも、何と書いてあるか、何のロゴマークなのかでまず中身を想像し、判断する傾向にあるのです。
                つまり、言語に従って想像することになります。
                というよりも、想像させられているという方がいいかもしれません。
                そして、その自らの想像を吟味せずに信じるかどうかが、だましの穴に落ちるか落ちないかの瀬戸際です。

                詐欺師と呼ばれる人たちは、これらのことをよく理解していて利用するのです。
                そして、言葉巧みに人をだますのです。
                これらはすべて、私たちが日々言語に従って生きているからです。
                言語や記号は、それぞれある意味を想像させ、指し示す機能を持っています。
                だからこそ、我々は互いの意思疎通を図れるのです。
                また逆に、言語に振り回され、だまされ、喜怒哀楽にもてあそばれることにもなる。


                「言霊」「人を生かすも殺すも言葉一つ」「言葉が身に染みる」「言葉に感動した」「言葉が胸にぐさりと突き刺さる」「ペンの力」etc

                私たちは言語によって、生かされもすれば、殺されたりもする。
                このように言語は、人の生死に関わる威力をも持っているのです。

                だまされる可能性の穴はすべての人に開いています。
                それは人は言語に従って生きているからです。
                これらを、ジャック・ラカンは「人は言語に隷属している」と言いました。

                日常生活の中で、「言霊」とも言われる言語を、人を生かし、自分を生かすために使いたいですね。

                シニフィアン研究所のHPもどうぞhttp://signifiant-lab.com/

                | 家族 | 18:25 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
                352)一家団欒(だんらん)
                0

                  シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
                  精神分析という対話療法で自己(無意識)を知り、必要に応じて書き換えていきます。
                  そうすれば、不安は安心に変わり、生きる希望が湧き、しあわせ入れ放題だと実感することでしょう。

                   今日は、「一家団欒」 について考えてみます。

                  「一家団欒(いっかだんらん)」=一家族が集まってなごみ楽しむこと
                  辞書にはこのように表記されています。
                  核家族化と呼ばれて久しいですが、どれだけの家族がこの団欒を時をもっているでしょうか。
                  その是非はとまれ、
                  ここでは、食事を中心に一家団欒がもたらすものについて考えてみます。

                  そしてそれは、「共食」「共感」「共生」であり、それが安心・安全の基であり、それが心身共に安らぎをもたらすと言いたいと思います。

                  「共食」とは、ここでは文字通り、一つの食卓につき共に食事をすることを指します。
                  食卓に家族が一堂に会するということです。
                  それは、お互いが時間と空間を同じくすること(時空の共有)を意味します。
                  「共感」とは、母の調理した料理を口にし、それぞれの味わいと感想を共有すること(味の共有)をいいます。
                  「共生」とは、共食と共感により、共に生きていることが実感できることを指します。

                  改めていうまでもなく、「食」は人が生きていく上でその基本となるものです。
                  必要な栄養を取ることだけが目的ではなく、「食」を通して様々なものを取り入れることでしょう。
                  素材、調理方法、食器、雰囲気などなど、数えきれないくらいの付加されるものがあります。
                  それらすべてを含めての食事の基本が、まずは家庭の食卓であり、
                  そしてその基本となるものが「共食」「共感」「共生」だといいたいのです。

                  ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                  子どもの様々な問題と向き合っていると、ある共通点が見えてきました。
                  すべてとは言いませんが、かなりの子どもが個食(孤食)の傾向にあるのです。
                  ある小学生に聞くと
                  「別に普通、1人でテレビ見たりゲームをしながらの方が楽しいし、、、」と言いました。
                  ある年齢以上になると、家族が一堂に会することは難しくなることでしょう。
                  だとしたら、それまでの時期に「共食」の楽しさを可能な限り体験させてあげたいものです。
                  共に食べ、共に語り、共に味わうことの楽しさを知る。
                  それが「我が家の味」であり、「おふくろの味」と呼ばれてきたものではないでしょうか。
                  その上にさまざまな味の体験を重ねていく。
                  家庭(母)の味を比較参照として「美味しい」「イマイチ」「口に合わない」などと語るのだと思うのです。
                  家庭の味を知らないとは、まさしくこの母の味を知らない、一家団欒の時と空間を味わったこと、味の基本となるものがない、ということではないでしょうか。

                  ………………………………………・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                  何よりも人がホッと安らぎを感じるのは、昔なつかしい味に出会った時では?
                  「何故かなつかしい気がする」
                  「なぜかホッとする」
                  「何故か分からないけど好き」
                  と表現する時は、どこかで「我が家の味」、それはまた家族(母)との思い出に繋がっている、そのように思うのです。

                  「同じ釜の飯を食った仲だ」
                  「同じ鍋をつついた」
                  「一つのパンを分け合った」etc

                  これらの体験が心身の栄養素となり、成長をよりいっそう促す。
                  心身の健康はまず食卓から、一家団欒の時空から始まると言いたいのです。

                  多忙な時を生きている私たちですが、日に一度、週に一度、月に一度でも「一家団欒」の時間と空間を可能な限り持ちたいと思っていませんか。

                  今日は「一家団欒」について書いてみました。
                  ひょっとしたら死語となりつつある、あるいはもうすでになっているかもしれません。
                  それでもやはり古くて新しい言葉だと思います。

                  シニフィアン研究所の迎意 愛からのメッセージです。
                  HPも参照ください。http://signifiant-lab.com/

                  ★個食とは、 (「孤食」とも書く)家庭で、家族が団欒(だんらん)することなく、一人で食事をすること。また、一人一人がばらばらの時間に食事をとること。
                  ・個食とは、家族が集まっていても各人個別の食事を取ること。

                  | 家族 | 11:17 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
                  340)対話と伝達
                  0
                    シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
                    精神分析という対話療法で自己(無意識)を知り、必要に応じて書き換えていきます。
                    そうすれば、不安は安心に変わり、生きる希望が湧いてくることでしょう。

                    今日は、「対話と伝達」について書きます。
                    月刊精神分析5月号が届きましたので、その紹介と共に、≪対話と伝達≫をテーマに考えてみたいと思います。

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                    「探偵ナイトスクープ」
                    2013年4月5日放送、探偵は竹山隆範。奈良県在住の18歳の少年からの依頼。依頼者は、物心付いた頃から両親の会話を聞いたことがなく、母親が話しかけても父親が無視してしまうのだと言う。子供に対しては普通に話しかけてくれるのに、なぜ母親とは口をきこうとしないのか、理由を解明してほしいという内容。依頼者の姉からも話を聞いた所、実に23年間会話をしていないことが判明。(月刊精神分析ー特集探偵ナイトスクープより引用 http://agency-inc.com/knight-scoop/

                    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                    上記の月刊精神分析の記事を参照しながら、
                    家族間での≪対話と伝達≫をテーマに考えてみましょう。

                    辞書では、「対話」とは、向かい合って話し合うこと。
                    「伝達」とは、命令・意思・情報などを口頭または書類で相手に伝えること。とあります。

                    これら二つの違いをみてみます。
                    一番の違いは『相手の現前を必要とするか、しないか』ではないでしょうか。
                    もちろん対話は必須(あるいは前提)で、伝達は必ずしも必須ではありません。
                    対話を中心に考えてみましょう。
                    1.お互いに向かい合うこと。
                    2.そのためには、傍(同じ空間)に居ることが前提。
                    3.時間的に、精神的に、『ゆとり』が必須。
                    これらのことが揃って初めて≪対話≫をする環境が整ったといえるのではないでしょうか。

                    自分の家族間はどうだろうか?と問いかけてみてください。
                    どのような光景が浮かんできますか。
                    家族間で会話はあるよという方は、
                    それは『対話』と『伝達』との観点からいうとどちらでしょうか。
                    「対話(伝達)に近い」
                    「伝達(対話)の方が多い」
                    「どちらもない」etc

                    この観点から特に注目したいのが、女性も社会参入しやすい環境を推進するために、
                    「0歳児保育」や「待機児童ゼロ」を目指して社会が動きを活発化していることです。
                    横浜市がわずか数年で、それを達成したとのニュースが先日発表されました。
                    (日本経済新聞参照http://www.nikkei.com/article/DGXNASDG2000Z_Q3A520C1CC0000/

                    社会状況から考えると、様々な考えや意見があることでしょう。
                    ただ、『対話』という観点からみた場合、
                    これらの状況下で、
                    どれだけ向かい合う時間が持てているでしょうか。
                    どれだけ傍に居る時間があるでしょう。
                    どれだけゆとりを持てるでしょうか。

                    なぜ『対話』を中心に考えているのかというと、
                    対話は家族間の絆を深め、強くすると考えるからです。
                    このことについては、後の機会に譲りたいと思いますが、
                    ただ言えることは、特に子どもの問題は家族の問題に通じているということです。
                    また子どもに限らず、多くの方の悩みや問題を聴いていると、家族の姿が浮かんできます。
                    そして、家族間の繋がり(絆)の希薄さや無さ、
                    その一因としての『対話のなさ』を痛感しているからです。

                    今回は「月刊精神分析」の記事に関連して≪対話と伝達≫について書いてみました。
                    家族間の会話はありますか?
                    それは対話ですか、伝達ですか?
                    この機会に少し考えてみませんか?

                    シニフィアン研究所のHPも参照ください。
                    勉強会、教室、講座もしています。http://signifiant-lab.com/
                    6月4日〜6日まで、関西へ出張します。
                    詳しくはスケジュールを参照ください。http://signifiant-lab.com/#161

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                    329)母子分離=母が言語になるとき
                    0
                      シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
                      精神分析という対話療法で自己(無意識)を知り、必要に応じて書き換えていきます。
                      そうすれば、不安は安心に変わり、生きる希望が湧いてくることでしょう。

                      今日は、「母子分離=母が言語になるとき」について書きたいと思います

                      母はすべての人にとって、最初の愛着の対象だといわれています。
                      それは、自分という存在をこの世に生み出してくれたその人だからです。
                      そして、乳幼児の時代は、
                      誰かに適切な世話をしてもらわないと、片時も生きられない存在だからです。
                      だからこそ、生み出してくれたその人に常に側に居て欲しい、
                      自分だけの人であってほしい、
                      独り占めしたいと切望するのでしょう。

                      しかし、社会参入することは、
                      その愛着の対象との別れを受け入れることでもあります。
                      心身ともに自律するためには、必須のことです。
                      つまり、子ども時代を終わらせ、大人の世界へと参加することを期待されています。
                      そのことを『母子分離』と呼びます。
                      これは、精神的、空間的、金銭的に自律することを指します。
                      現在、その猶予期間は約20年と言えるでしょう。

                      身体的に分離してから20年をかけて、精神的に分離することを求められているということです。
                      精神的に母子分離することを考えたいと思います。
                      様々な切り口がありますが、
                      ここでは、母が言語になることだと言いたいと思います。

                      どういうことかというと、
                      生身の自らの母が、だれもが自由に使う『母』という言語になることを意味します。
                      つまり
                      ・思う通りにさせてくれなかった母
                      ・言うことを聞いてくれなかった母
                      ・放任の母
                      ・支配した母
                      ・頑固な母
                      ・わがままな母
                      ・他の兄弟姉妹に獲られた母
                      ・溺愛した母
                      ・いつも不在だった母
                      などなどの母から
                      ・『ただの母』
                      ・『どこにでもいるボケ老人』
                      ・『ただの人』になることです。

                      ある人が淡々と言い放ちました。
                      <私を支配し続けた母でしたが、今ではどこにでも居るボケ老人になりました>と。
                      そのように語るまで15年近くの時間を必要としたとも語りました。
                      何の感情も交えず、湧き上がることもなく、
                      やっと<ただの人になりました>と言えるようになったと語った人もいます。

                      彼らはそれまで、多くの不平不満を語り続けました。
                      また、不平不満すら語るまでに相当な時間を要した人もいます。
                      ただ、共通していることは
                      長く抱えてきた母への不平不満を語り続けた結果、
                      『母』という誰でも使うただの言語となったということです。
                      <母を尊敬している>と語る人もいます。
                      それでも、そうではない部分を語り始めた時、何かが変わったともいいました。
                      とまれ、
                      「母」は誰にとっても一度は必ず意識して語る必要のある存在なのです。
                      それが、色々な意味において《偉大な存在》と言われるゆえんなのでしょう。


                      あなたの「母」はあなたにとってどのような人でしょうか?
                      母を語るとき、どのような感情が伴うでしょうか?
                      あるいは、何らの感情も湧き上がってこないでしょうか?
                      母なくしてこの世に生み出されることはなかった。
                      これはまぎれもない事実です。
                      だからこそ「母」は母港であり、故郷であり、世界でただ一人の特別な人。

                      母について語ってみませんか。
                      自分にとって母とはどのような人なのか知りたくなったら
                      精神分析は役にたつでしょう。
                      興味を持たれた方はこちらを参照ください。
                      「自己を知る」講座もあります。
                      シニフィアン研究所http://signifiant-lab.com/

                      月刊精神分析2013年2月号『グリム童話・白雪姫』でも取り上げられています。
                      詳しくはこちらを参照ください。http://agency-inc.com/grimm/

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                      324)すべてを壊して一からやり直したい
                      0
                        シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
                        精神分析という対話療法で自己(無意識)を知り、必要に応じて書き換えていきます。
                        そうすれば、不安は安心に変わり、生きる希望が湧いてくることでしょう。

                        今日は、「すべてを壊して一からやり直したい」について書きたいと思います

                        「一からやり直したい」
                        このように思う時はどのような時でしょうか。
                        うまくいかない時、思い通りにならない時、
                        また、期待をかけられ、その重圧に押しつぶされそうに感じた時、
                        枠が厳しくて窮屈だと感じた時、
                        そんな時に、一度すべてを壊してしまいたいとの衝動に駆られる。

                        肩にかかった重荷を下ろしたい、
                        背中に背負ったものを投げ出したい、
                        そのように感じた時、
                        すべてをリセットして、最初から自分の人生をやり直したいと思う。

                        親や周りからの期待、伝統を受け継いでゆく立場にある時など、
                        自分一人の問題ではないと感じる環境の中に居る場合、
                        それらすべて投げ捨てられたなら、どんなに楽なことだろうと考える。
                        情に絡まれ、情に翻弄され、情に纏わりつかれて断ち切れない。
                        そんな苦しみと葛藤から抜け出したいと思うとき、
                        すべてを壊して一からやり直したいと切望するのでしょう。

                        そのように思った時、
                        ある人は離婚することで、
                        ある人は、倒産や失業などの失敗ですべてを失うことで、、
                        またある人は、問題や事件を起こすことで壊すかもしれません。
                        もちろん、意識的にはだれも好んではしないでしょう。
                        無意識的にそのように自らを導いてしまうとの観点から考えた時、
                        時として、なるほどと思えることもあるのではないでしょうか。

                        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
                        ある人が言いました。
                        「どうすれば親が自分のことを諦めるかばかり考えていました」
                        「親の期待をすべて裏切れば、親から自由になれると思ったんです」
                        「でもダメでした」
                        「だから消えたくなったんです」
                        その人は、自分を知る人が誰もいない世界へと飛び出し、
                        そこからスタートしたのです。

                        またある人は
                        事件を起こし、すべてをなくしました。
                        その人は復讐をしたと言いました。
                        その時の気持ちは≪ざまあみろ≫だった。
                        これでやっと自分の人生が始まると語りました。
                        ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

                        極端な例かもしれません。
                        ですが、人は自分の想いを遂げるためならどんなことでもするのだと痛感しました。
                        このような極端な方法を使わず実現する方法はないのでしょうか。
                        それは、自分の欲望(無意識)に気づくことだと思うのです。
                        無意識的だからこそ、翻弄されてしまう。
                        意識化できれば他の方法で実現することができるのではないでしょうか。

                        すべてを壊して一からやり直したいと思う時、
                        ひょっとしたら、無意識に翻弄されているのかもしれません。
                        その自分の無意識を知りたいと思いませんか。
                        その時、精神分析はお役にたつと思います。

                        興味を持たれた方は
                        シニフィアン研究所HPを参照ください。http://signifiant-lab.com/

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