≪整心科学研究所(埼玉県上尾市)≫

自己治癒力により心身を整えていく。量子力学・宇宙物理学・脳科学の観点から精神を捉えた新しい科学に基づいた療法を研究、実践中です。
CALENDAR
     12
3456789
10111213141516
17181920212223
24252627282930
31      
<< July 2011 >>
PR
RECOMMEND
SELECTED ENTRIES
CATEGORIES
ARCHIVES
RECENT COMMENT
MOBILE
qrcode
LINKS
PROFILE
OTHERS
無料ブログ作成サービス JUGEM
スポンサーサイト
0

    一定期間更新がないため広告を表示しています

    | - | | - | - | ↑PAGE TOP
    承認と賞賛はなぜ必要か?
    0
       
      自己愛」を高めることだから。
      様々な悩みや不安は、その問題の解決方法が見いだせなかったりするだけではなく、
      それらに向き合ってゆく意欲、いわゆる心的エネルギーが不足していることが大きな一因。
      その心的エネルギーはどこから湧いてくるか?
       
      それは「自己愛」を高めることから。
      自己愛には三つの要素がある。
      自己肯定感」「自己価値観」「自信
      自己肯定感は自分で自分を肯定できる(良しと思える)こと。
      自己価値観は自分は生きるに値する存在であると思えること。
      自信は自分を信じられること。
       
      では、自己愛はどのようにして作られるのか?
      それは対象恒常性と基本的信頼感から。
      対象恒常性は、常に側にいて、まなざしとスキンシップを要求に応じて与えてくれるただ一人の人が居ることから
      人の精神内界に作られる(=内在化)。
      ただ側にいるだけではなく、要求に敏速に的確に行動で応えられることがその条件となる。
      基本的信頼感は対象恒常性を基礎に「どんな私でも受け入れてくれる(=オールOK)体験」によって培われる。
      つまり、承認と賞賛から作り上げられる。
       
      ここでいう承認とは要求を聞き入れることを意味する。
      要求に対する是非は持ち込まないことが前提となる。
      その要求は正しいか、間違っているかの判断は持ち込まないこと。
      要求の内容と、要求するその人自体とは別だと認識する視点が大切。
      もし、その要求が良くない内容だとしても、要求するその人が悪いとは限らないということであり、
      言い換えれば、要求の内容に対しては反対だが、あなたが嫌いという訳ではないということである。
      基本的にその要求の是非は要求する本人が一番知っているものである。
       
      では、なぜ悪いと知っているのに要求するのか?
      それは、相手を試していると言える。
      つまり「これでも私を受け入れてくれる?愛してくれる?見捨てない?」
      これを受け入れられたなら、それからは不必要な要求はしなくなる。
      なぜなら、もう試さなくても私を見捨てない、肯定してくれるという基本的信頼感が持てたから。
       
      そして、褒めるに価する言動に対しては適切な賞賛を与えること。
      過剰な賞賛、あるいは交換条件付きな賞賛はしないこと。
      たとえば
      頑張ったからこれを買ってあげるとか、言う事聞いてあげるなどなど。
      よく頑張ったね!良かったね!など共に喜び、分かち合い賞賛すること。
      これを共感するという。
      決して上から目線での物言いはしないこと。
       
      これらの対象恒常性と基本的信頼感を持てたなら、人はより自己愛を高められるであろう。
      人は、何よりも自己愛を傷つけられることを一番恐れ、
      ひいては自己肯定感、自己価値観や自信がゆらぎ、生きるエネルギーが枯渇する一因となる。
       
      シニフィアン研究所のHPはこちら  http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/
      | 育児・子育て | 07:34 | comments(0) | - | ↑PAGE TOP
      母の良い子になってはいけない
      0
         
        子どもは母が世界で一番大好きな愛の対象である。
        状況からくる影響により、大嫌いだと語る人もいるかもしれない。
        それでも、自分が存在することを選択してくれた人であることは疑う余地のないことである。
        子どもには自分の存在を云々することは不可能であり、
        主に母なる人の判断に委ねられているからだ。
         
        それはとまれ、
        子どもはいつも母を見ている。
        母だけを見ているといっても過言ではないと思う。
        母の喜ぶ顔が見たいと思う。
        母の言う通りの良い子になろうとする。
        年齢が小さければ小さいほど世話をしてもらう必要性が高いから、母の言う事を聞く。
        それでないと、家は居心地の良いものとならないからだ。
         
        母の方も自分の言う事をよく聞く子にしたいと思う。
        しつけという名の下に、この子の仕合せのためだと信じて。
        しかし、それは母の都合だ。
        母が自分のしたいことが邪魔されないように、自分が楽なように子どもを操る。
        時には、自分が果たし得なかった夢を、我が子に背負わせてしまう。
        また、家業の跡取りとしての役目を押し付けるかもしれない。
        世間から素晴らしい親だとの評価を得たいためかもしれない。
         
        それらの是非をいうのではない。
        母が我が子に「こうなってほしい」「ああなってほしい」と願うことは大切なことである。
        原初、子どもは母に欲望される存在であることが何よりも必須である。
         
        しかし、
        母が我が子に求めるものは母の想いであること。
        それは言い換えれば、子どもを母の欲望の対象にしてしまうことである。
        子どもを母の欲望の対象にしてしまうとは、母に呑み込まれて自立できないということと等価である。
        自立した人となるためには、どうしても母への反抗が必須となる。
        母への反抗期がない子は後に、自立することに問題が生じる可能性が大きい。
        ゆえに、母の良い子になってはいけないというのである。
         
         
         
        Φ シニフィアン研究所のHPはこちら   http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/
        | 育児・子育て | 07:00 | comments(0) | - | ↑PAGE TOP
        マーキングー母が触れた部分は性感帯
        0
           
          母が乳幼児の世話をする
          その時には当然肌に触れる
          授乳、お風呂、着替え、おむつを替える、抱っこ、おんぶなどなど
          母の手(素肌)がその中心となる
          それをマーキングという
           
          母のマーキングは心地良いはずである(必ずしもそうと言い切れないこともある)
          その時の心地良さ=快が、後にその快を反復することを求める
          母が触れることが快であるとマーキングされたなら
          その快を何度でもあらゆる場面で再現したいと人は求めるようだ
          つまり
          触れることが快だとマーキングされることによって、皮膚感覚が発達するとも言える
           
          逆に言えば
          マーキングが何らかの事情でない場合、もしくは希薄な場合
          あるいは、極端に不快だった場合
          皮膚感覚が鈍麻する可能性が大きい
          暑さ、寒さなどの感覚が感じられない
          あるいは、人に触れられることが
          「くすぐったい」「嫌」「気持ち悪い」「痛い」
          と感じる傾向があるようだ
           
          中には
          まったく感じないという人もいる
          人の様子を見ても、「暑そうだ」とか「寒そうだ」とか
          「疲れているようだ」「しんどそうだ」なども読み取れないという
           
          自分が体験している=マーキングされているから
          人を見ても想像できる
          痛さも暑さ寒さも体の不調も想像できる
          それがないと見ても想像できないし
          自分も鈍麻しているから怪我をしても痛さもさほど感じないらしい
          ファッション感覚でタトゥーが流行したが
          これも皮膚感覚が鈍麻している=マーキングがないことの証だと言えるだろう
           
          蛇足になるが(豊富なデータがあるわけではないが)
          産道の圧迫感を体験していなかったり、触れてもらう体験が希薄な場合、
          その圧迫感を強く感じるようなこと
          例えば、スキューバダイビングスカイダイビングなどを好む
          そっと触れるよりも、ぎゅっと強く抱き締められたいと思う
          また、大人の性行為においてもこういった傾向が強くなることが予測できる
           
           
          Φ シニフィアン研究所のHPはこちら   http://signifiant-lab.com/raise/
          | - | 07:51 | comments(0) | - | ↑PAGE TOP
          母になるということ
          0
             
            出産と共に「母」という役目が一つ加えられる
            「母になる」とはどういうことか?
            それは
            ある一定の期間、自分の時間が極度に制限されること
            自分の主導権を放棄する覚悟が必要とされること
             
            これらの観点から考えてみることにしよう
             
            乳児は他者の世話を受けなければ片時も生きられない存在である
            ゆえに、授乳に始まり、お風呂や着替えなど24時間体制の世話を求めている
            お腹がすいた、眠い、オムツが濡れたなど
            昼夜かまわず、ひたすら要求し続ける
            母の側の都合など一切おかまいなしとなる
            不快が快に変わるまで要求し続けることになる
             
            昼夜逆転の睡眠や夜泣きなど、母にとっては辛い要求となることが多い
            それでも世話し続けなければならない
            「こんなに一所懸命してるのに、赤ちゃんが可愛いなんて、そんなことは嘘だ!」
            と叫びたくなる状況となる
            何一つ、母の思う通りにはならない
            やっとの思いで寝させた頃にはもうクタクタ
            ホッとする間もなく主婦の仕事が待っている
            自分の時間など、どこにもない
            こんなはずじゃなかった
            周りの協力も得られないとなると
            育児ノイローゼや虐待へとひた走る可能性が出てくる
             
            一方、夜泣きも昼夜逆転もさほどなく、育てやすい赤ちゃんもいる
            なぜ?
            要因はさまざまある
             
            とまれ、母になるとは
            「ある一定の期間、24時間体制で主導権を赤ちゃんに譲り渡す覚悟を持つこと」
            だと言える
            この覚悟を持った母への唯一のごほうびは「赤ちゃんの笑顔」である
             
             
            シニフィアン研究所はこちら http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/
            | 育児・子育て | 07:54 | comments(0) | - | ↑PAGE TOP
            我々は言語に隷属している
            0
               

              文字や言葉は、単に線や音の集合であり、

              その形や音の種類によって笑ったり、怒ったり、泣いたりする。

              「素敵ですね」と言われれば、その人の顔はパッと明るく笑顔となるだろう。

              反対に

              「あんたなんか大嫌いよ」と言われたなら、きっと怒ったり、悲しい表情になることだろう。

              しかし、なぜ笑ったり、喜んだり、怒ったり、泣いたりするのだろう?

              音の、文字の集合なのに。

               

              それは、その音や文字の集合に、それぞれ共通の意味を見出しているからだ。

              そしてその意味にそれぞれ感情や行動として反応していることによる。 

              つまり、その共通の意味を共有しない所では、

              それらは単なる線や音の集積と化す。

              たとえば、日本人には普段馴染みがないであろうサンスクリット文字やアラビア文字

              また、速記文字や方言などもその範疇に入るだろう。

              それらは、その意味する内容が理解できないからだ。

               

              それゆえ、意味を共有しない文字や音にはほどんど風景の一部のように通り過ぎるだろう。

              人は意味の中に感情や行動を規定されていると言える。

              言い換えれば

              人は線や音の集合の中に、自らの意味を文字や声として切り出しているということになる。

              また、

              自分が自由に使っているつもりの言語は実は誕生以来ひたすら全面的に受け入れてきたものである。

              つまり、言語は誕生以前からある体系であり、人はこの中に参入するしかない存在であった。

              語られ、それを取り込むことでしか他者の中に参加できなかった。

              他者なる言語体系とある種の契約をしたようなものである。

              そして、今もその受身的であることに変わりはない。

              これをラカンは「言語に隷属している」と書いている。

               

              シニフィアン研究所のHPはこちら  http://signifiant-lab.com/
              | 生き方 | 07:30 | comments(0) | - | ↑PAGE TOP
              まなざしとスキンシップ(抱っこ)は愛着の微分係数
              0
                 
                人は寄る辺なき存在として生まれるがゆえに、世話してくれる存在を必要とする。
                「世話」とは、求めている時に(敏速に)、求めていることだけを(的確に)、行動で応えること。
                別名「母性行動」と呼ぶ。
                 
                母性行動の基本は主に授乳を通した「まなざし」「スキンシップ(抱っこ)」から始まる。
                 
                「お母さん、私を見て!」というメッセージを送り続けている。
                まだ、言葉を理解しない時から。(実は正確な表現ではないが、今はこのままにしておく)
                この母のまなざしとスキンシップが母という存在に「愛着」というものを感じる第一歩となる。
                ゆえに、
                まなざしとスキンシップ(抱っこ)は愛着の微分係数であると言う。
                また、この愛着が「欲望」を生み出す源ともなる。
                 
                母の若くて柔らかい肌の温もり、おっぱいの感触、匂い、
                これらが基本となって
                求めても手の届かない、黄金比のかなたにある「対象a」を永遠に求め続ける旅路を行く旅人となる。
                つまり
                「これだ!」と思って掴むが、「やっぱり違う・・・」と手放し
                「どこかにあるはずだ」とまた掴んでは放す。
                その時々によって、掴む対象は変化するだろう。
                しかし、そこにはある共通項が見出せる。
                それをフロイトは「一の線」と言った。
                まさしく、人は母の代理物を求め続けることに自らの時を費やしていると言えるのではないだろうか?
                 
                それらの基本となる「母の世話」=母が常に側にいることが非常に重要な要素となる。
                少なくとも4歳までは、片時も子どもの側を離れることなく母性行動をすること。
                これが求められる。
                 
                では、最初の「愛着」がなかったら、母の「まなざし」と「スキンシップ(抱っこ)」がなかったらどうなるか?
                想像してみてほしいと思う。
                 
                 シニフィアン研究所のHPはこちら  http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/
                 
                | 育児・子育て | 13:09 | comments(0) | - | ↑PAGE TOP