≪整心科学研究所(埼玉県上尾市)≫

自己治癒力により心身を整えていく。量子力学・宇宙物理学・脳科学の観点から精神を捉えた新しい科学に基づいた療法を研究、実践中です。
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    不登校や引きこもり
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      家族の誰かが、ある日突然、学校や職場へ行かなくなった。あるいは、休む日が増えてきた。
      このままでは将来どうなってゆくのか心配だ。何とかしないと!
      一日も早く元の生活に戻さないと大変なことになってゆくのではないか?
      このまま社会から脱落してしまい、ダメになってしまうのではないか
      あるいは、どこか悪いのではないか?病院へ連れていかないと手遅れになるのではないか?
      誰が悪いんだろう?私の育て方、接し方が悪かったのだろうか?
      様々な想いが錯綜し、どんどん不安になってしまうのも当然のことでしょう。
      こんな時、視点を変えてみましょう!!
       「なぜ?」と問いかけるのではなく
      「何を言おうとしているのだろう?」と。
      本人に聞いても、きっと「わからない」と答えることでしょう。
      あるいは、友達が、先生が、授業が、、、と言うかもしれません。
      それもあるでしょう。しかし、それらは一つのきっかけでがある場合が多いのです。

      1) 聞いてみましょう「何かあったの?」と。
      答えは期待しないこと。根堀り葉堀り聞かないこと。
      感情的にならないこと。自分の想いを押し付けないこと。
      「あなたに関心を持っている。大切な存在である。」ということを伝えることが目的だから。

      2) 認めること
      学校や職場に行かない、行けないことを指摘しないこと。
      行かないとどうなるか、どれだけ大変なことか、困るかの話をしないこと。
       引き込もり状態になると、たいていは昼夜逆転し、お風呂や食事など日常生活が乱れてきます。
      当然、家族は心配して注意したくなります。でも注意ではなく、声かけしましょう。
      「ご飯できたよ」「お風呂わいたよ」「おはよう」「おやすみ」と。
      家族の生活リズムを言葉で伝えましょう。
      自分がどういう状態なのかは、誰よりも本人が一番知っています。

      3)焦らないこと
      一日も早く元の生活に戻って欲しいと焦らないことです。
      やっと、ある意味で気づき、自己主張できるようになったのですから。
      必要な時間をかけて、自らの意志で自分の人生を引き受けるようになると信じましょう。
      人は誰でも「欠如」を自覚し「欲望」を持てば行動します。
      動かない、動けないのは「欠如を自覚しない」「欲望がない」からです。
      つまり、欠如を感じ(お腹がすいた)、欲望する(何か食べたい)から行動する(冷蔵庫を開けて探す、
      スーパーやコンビニへ行く)のです。
      決して怠け者ではないのです。
      何らかの事情で欲望がなくなった、あるいは無いことに気づいてしまったのでしょう。

      4) 気長に見守りましょう
      家に引きこもっているのなら、家が一番の居場所です。学校が居場所の人もいるかもしれません。
      友達の家が居場所なら友達の家に行くでしょう。居場所が無いと言う人には居場所を作ってあげましょう。
      居場所が無いと、あちこち転々と居場所を求めるか、家の中の決まった場所に引き籠って動かないでしょう。
      家以外の場所に出て行くからといっても、必ずしも社会へ出る一歩だとは限りません。

      5) 悩み、苦しみは同じ悩みを持つ人と語り合い、吐き出し合い、学びましょう。
      ただ、愚痴の吐き出し合いに終わるのではなく、気づいたことを話し合い、学び合いましょう。
      「あなたのことを心配しているから」という名の下に、本人に吐き出すのは
      双方にとって悪循環のもとになる可能性が高いからやめましょう。

      6) これを機会に問いかけてみては?
      不登校や引き込もりというメッセージはどういうメッセージなのだろうか?
      何を言いたくて言えないのだろうか?
      不登校や引き込もりがきっかけで家族に何か変化があったか?
      今までとは違ってきたことはないだろうか?
      本人だけではなく、家族全体のこととして見たとき、何か見えてくることはないでしょうか?

      7) 必要だからしている
      言葉で説明できないけれど、なぜだか解らないけど、これだけは確かなこと。
      「今、自分にとって必要だからしている」

      追記
      ・家族、本人が自ら「不登校」「引き込もり」と言わないこと。
       それらの呼称は、ある枠組みから付けられたもの。
       その言葉を自ら語るということは、それが意識的、無意識的であるに関わらず
       その呼称を自ら承認した、受け入れたということに繋がることだから。
       時には、その呼称が隠れ蓑のようになり、
       知らぬ間にその中が妙な居心地の良さを与え、
       そこからの歩み出しを目指しながらも、いつしか狭い居場所となり、時には排他的にもなるかもしれない。
       例えば
       「経験した人にしか分からない」
       「他の人に話したってどうせ理解してもらえない」
       「経験者同士だから、分かってもらえる、分かってくれているはず」
       「私たちは他の人達と違う」
      こんな気持がどこかに生じたなら、同じ悩みや目的を持った場がいつしか単なる愚痴の吐き出し合いや
      理解しない人たちへの非難や批判に終始する可能性が出てくる。
      そして、そのことがその場に居る人の求心的排他的なエネルギーとなって、逆にどんどん小さくなり
      やがて消滅する可能性も出てくるかもしれない。

      それを防ぐには、異分子だと思える他者を受け入れること。
      その他者と同化するのではなく、異分子なら異分子のままでその場に抱き込みつつ
      その異分子の目線から自らを見てみる。
      これが求心力を持ちつつ、外へとどんどん広がってゆくパワーとなると思う。
      それがひいては、家族の中にある様々な悩み、苦しみや問題にも通じるのではないだろうか?
      物事の是非を問題にするのではなく、
      なぜだか今は理解出来ないけれど必要な事柄なんだろうと抱き込んでゆく視点、
      それを「承認」あるいは「受容」と呼んでよいと思う。

      お問い合わせは シニフィアン研究所HPまで http://signifiant-lab.com/

      | 不登校・引きこもり | 19:39 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
      人は皆「わがまま」で「怠け者」で「スケベー」だ
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        我が心の中を覗いたなら
        きっと「わがまま」で「なまけ者」で「スケベー」だと思う
         
        何事も、努力などせずとも自分の思うとおりになる方が良いし
        できることなら何もしたくないし
        同性の友達もいいけど、やっぱり異性が良い
         
        自分の好きな所へ行き
        自分の好きな人とだけ一緒に居て
        自分の好きなことだけをして
        自分の好きなことを言える
         
        何もしなくても美味しいものが食べられ
        何もしなくての好きな服装が着られ
        何もしなくても好きな車に乗ってどこへでも行ける
        何もしなくても生涯困らない
        もし困ったとしても、必ず誰かが助けてくれる
         
        そんな風に生きられたらどんなに良いだろう!!
         
        これらのもう一人の自分とでも言えるものを
        「それも私です」
        と素直に認められたら
        きっと、今よりももっと気楽に愉快に生きられるに違いない
        でも、周りはそれを認めてくれない
        それは何よりも怖い! 
         
        認められない、認めることに抵抗するところから
        悩み・苦しみ・迷いが生まれてくる
        それらを認めることに抵抗しているのが人間
        「〜すべき」「〜ねばならない」にがんじがらめになっている
         
        誰も言わなくても、心の中から聞こえてくる声がある
        そんな声なんか「クソくらえだ!」
        と投げ捨ててしまえばいい
        そうすれば、その時から何かが変わって見えるだろう
         
        先日、あるドラマで主人公が言っていた。
        「そんなに重いのなら捨ててしまえばいい。
        でも、どうしても捨てられないものならば、文句を言わず粛々と黙って守り続ければよい」(意訳)
         
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        | 生き方 | 14:01 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
        言語は自分と他(対象)を文節、切断する機能
        0
           
          「これは花です」と言う時
          「これは花であり、私ではありません」ということ。
          つまり、私と花は同一ではなく、別のものであることを意味する。
          「あなた」というと
          私とあなたは別の人間ですということである。
           
          当たり前だと思うが、これが案外そうでもないようだ。
           
          私とあなたは別の人間だと思っているのなら
          あなたが「悲しい」と言って泣いたとしても
          それは「あなたが悲しい」のであって、私は悲しいわけではない。
          なのに、時にはどうしてもらい泣きするのだろうか?
          腹が立ったと怒りをあらわにしている人の話を聞いて
          どうして同じように腹を立てることがあるのだろう?
           
          それは、その瞬間、私の心があなたの心と一体になったからではないだろうか?
          つまり、私とあなたが融合して一つになり、私もあなたもなくなった状態を意味する。
          私はあなたの悲しみと一体化し、怒りと一体化する。
          人はこのようにいとも簡単に対象と一体化する。
          また、対象だけではなく、過去の自分自身とも一体化する。
          その一体化の中にとどまり、抜け出せなくなったとき、
          悩み、苦しみ、迷いなどが生まれてくる。
           
          この時、誰かに語ることによって少しは楽になるのは
          語ること=言語化することによって、一体化の状態から抜け出す(切断される)ことになるからだ。
          ただ、一時的に抜け出す(切断される)だけにすぎない。
          それは他者と思っているが、実は自分の姿を見い出している他我に過ぎないから。
          語ることによって何がきっかけか分かるかもしれないが
          なぜそのことに一体化するのか、抜け出せないのかはまず分からないことが多い。
           
          とまれ、
          言語はこのように私と対象を切断する機能がある。
           
          シニフィアン研究所のHPはこちら   http://signifiant-lab.com/
          | 生き方 | 21:56 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
          シニフィアン研究所のHPが新しくなりました
          0
             

             シニフィアン研究所のHPが新しくなりました。

            アドレスは http://signifiant-lab.com/ スマートフォンでも見られます。

            今後、メイン以外にも「後悔しない子育て」「女たちよ賢明であれ!」のタイトルの記事もアップします。

            精神分析的観点からの「子育て法 」を、結婚から始まり、妊娠、出産、育児、成人まで

            発達課題と問題を取り上げ、書いてゆく予定です。

            子育て相談は、数え切れないくらいありますが、

            「母になるとはどういうことか?」から始まり、「どのように育てればよいか?」

            「親から見て困った子どもの病気や言動は、なぜ?何を訴えているのか?」

            に対しての、的確なアドバイスはなかなか無いように感じます。

            また、あまりにも安易に親になりすぎ、あまりにも子育てにおいても【無知】だと痛感しています。

            子どもさんのことで悩んでおられる方の一助になればと考え、このHPを立ち上げました。

            思春期真っ只中の方から、これから結婚を考えている方、

            子育て真っ最中のパパ&ママ、そして、、、離婚を考えている方にも読んでもらいたいです。

            特に、結婚について迷っている方必見!!

            《賢明なパートナー選び》についても、書く予定です。

            今しばらく お待ちください。

            | - | 08:25 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
            垂れ流しと受け流し
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              人は相手と何らかの話をしていると、対話しているかのように思っている。
              対話とは言葉のキャッチボールと言われるが、
              相手のボールをよく見て、正面で受け止める。
              投げる方は、できるだけ相手が受け止めやすい所へ投げる。
              そうすればお互いに楽である。
               
              ところが実際はどうだろうか?
              投げる方は、その時の気分次第で気ままに投げ出す。
              ストレートもあれば、シュート、カーブ、果てはとんでもない魔球も生まれる。
              こうなったら、受け止める方も最後にはあきらめて、受け取ることをやめてしまうだろう。
              受け止めるフリだけして、うなずくだけとなることだろう。
               
              このように話す状態をある人は【垂れ流し】と言った。
              適切な言葉だと感じた。
               
              他によくあるのは、命令、指示、伝達。
              「あなたの為を思って言ってるのよ!」
              この物言いに乗せて、自分の思うとおりに相手を操作しようとするのも命令指示。
              あるいは、「こうしなさい、ああしなさい」と、分かりやすい命令指示もある。
              伝達は、
              「明日、○○があるから」「○○へ行くから」「○○しておいてね」など、
              あらかじめ決まっている事柄を伝えるだけで、相談は一切無い。
              忙しいと言う名のもとに、言葉は飛び交っているが対話はない。
               
              対話は、食事と同じようなものだと思える。
              自分は口から吐き出し、相手に投げる。
              相手からきたものは目や耳や肌から摂取し、それを咀嚼し消化し、吸収して血肉とする。
              そして、不要なものはすみやかに体外に排出する。
              ここには、選択性がある。
              自分にとって快か不快か?
              どんなに素晴らしいものでも、関心がなかったり、嫌いだと感じたなら
              人は決して取り入れない。
              いわゆる「スルーする、聞き流す」のである。
              垂れ流し】に対して【受け流し】とでも言える。
              受け入れられないものは嘔吐や下痢で表現されるだろう。
              つまり、人は自分の好きなモノは取り入れるが、嫌いなモノは取り入れない。
              これではとても対話とは言えない。 
               
               
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              | 育児・子育て | 13:10 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
              人は意味で生きている
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                人は言葉によって、笑ったり、喜んだり、泣いたり怒ったりしている。
                ある人には何でもない言葉が、ある人には感動させたり、泣かせたりもする。
                これはどうしてだろう?
                 
                それはその言葉が持つ意味に反応しているからだと言える。
                例えば
                「あなたは素敵ですね」という言葉がある。
                これをAさんい言ったら、「まあ 嬉しいわ!」と答えた。
                次にBさんに同じ言葉を言ったら、「何か下心があるんじゃないの?」と言った。
                また、Cさんに言ったら、「そんな言葉を言ったって私はあなたの思い通りにはならないわよ!」と怒った。
                 
                同じ言葉なのに、どうしてこんなにも反応が違うのだろう?
                Aさんは、その言葉を素直に受け取り、素直に嬉しいと言ったのだろう。
                Bさんは、「人は嘘をつく」と思う傾向が強いのかもしれない。
                Cさんは、人に対して疑いの気持ちが強く、
                相手を誉めれば自分の思うとおりになると考えているのかもしれない。
                 
                このように人は同じ言葉でも受け取り方が違う。
                これは、その言葉をめぐってどのような体験をしてきたか?
                つまり、どのような意味付けを持ってきたかに左右されると言える。
                 
                同じ言葉であっても、受け取る人の意味付けによって全く違う反応が返ってくる。
                自分が考えている意味付けと、それを受け取る相手の意味付けが違う場合、
                (大抵の場合、ほとんど同じ意味付けの人はいないと言っても過言ではないが)
                時には誤解が生じ、喧嘩や仲違いにまで発展する。
                 
                「コミュニケーションはすべて誤解から始まる」とラカンは書いている。
                これを忘れず、時には
                「私はこういう意味付けで、この言葉を使っているけど、間違いなくそのように受け取ってくれている?」
                と確認することも必要だと感じている。
                 
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                | 生き方 | 20:17 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
                欠如は欲望を生み出す
                0
                   
                  人は欠如を自覚するからこそ、その欠如を埋めたいと思う。
                  欠如を欠如と認識しなかったならば、埋めたいとは思わないだろう。
                  当たり前だと思うが、案外そうではないように感じる。
                   
                  欠如だと自覚するには、まず欠如していない状態(満たされた状態)を知っていることが前提となる。
                  例えば、
                  お腹が空いたときにたっぷり食べるからこそ、お腹が一杯になり、空腹感が満たされたと感じる。
                  満腹感を味わったからこそ、次の空腹の時も食べたいと思うのである。
                  お腹が空いたのに、食べるものがなかったり、食べてはいけないと禁止されていたとしたら
                  やがては空腹感も感じなくなってしまうだろう。
                  一度くらいでは空腹感は麻痺しないだろうが、それが普通のことになっていたらどうだろうか?
                  自らの空腹感が自覚できなくなり、お腹が空いているのかどうかさえ分からなくなる。
                  そうすると、お腹が空いたという欠如を感じなくなる。
                  つまり、食べたいという欲望を持たないことになる。
                   
                  このように、食だけでなく、愛情など無形のものも含めて、
                  欲しいときに欲しいものを手に入れて満足した経験があるからこそ
                  それがなくなったとき、あるいはないとき、それが欠如していると自覚し
                  それを満たしたいと欲望する。
                   
                  つまり、欠如を欠如と自覚しない限り欲望は湧いてこない。
                  逆に言えば、欲望がない人は、欠如を自覚していないと言える。
                  いつでも、なんでも身の回りにある場合、人は何も欲望しないだろう。
                  満たされていないと感じるからこそ、欲しいと思い、それを手にするための方法を考え、行動する。
                  ゆえに、欲望がない人は欠如を作ればよいとも言えるだろう。
                   
                   
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                  居場所がない―消えてしまいたい
                  0
                     
                    「自分の居場所がない」という人は
                    自分という存在を肯定してくれるただ一人の人が居なかったということ
                    自分の居場所があると思える人は
                    自分を肯定してくれるただ一人の人がいる
                    自分がある特定の誰かに必要とされている
                    自分がその人の心に存在している
                    そして、自分もその人を必要な人、大切な存在だと思えるということでもある
                     
                    人はどうして自分を肯定してくれる他者を必要とするのだろうか?
                     
                    それは、人が人となってゆく過程の中で、どうしても自分を映してくれる他者(鏡)を必要とするから
                    人は生きるに必要な衣食住があれば自然に人となってゆくのではない
                    体の成長に応じて心も成長してゆくのではない
                    心は適切な世話行動と他者からの語らいによって成長してゆくもの
                    人が人となってゆくには
                    「私は○○の人間です」と語れること
                    すなわちアイデンティティーを持って社会に参入するということでもある
                     
                    自分はどんな人間か?
                    それを形成するためにはどうしても他者を必要とする
                    つまり「鏡」と必要とする(ラカン「鏡像段階」)
                    いわゆる姿形を映す鏡を見て「私ってこんな体型、顔形なんだ」と知ること
                    そしてもう一つ大切な鏡
                    それは他者から「あなたは○○な人ね」と語られること
                    この両方の鏡に映る姿を総合して(快感原則が作用する)
                    私って○○な人間だと思う(想像的同一視)
                     
                    私は私だと言ったとしても
                    それを肯定してくれる人が皆無だったなら
                    独語の世界を脱せない
                    なぜなら言語は自己言及の不可能性を内包しているものだから
                    自分以外の他者が「それがあなたよ」と肯定してくれて初めて
                    自分は自分であると同定できる
                    他者からの承認があって人は自分を○○な自分だと認められる
                    最初期にはこのような他者承認がどうしても必要となる
                    また
                    自分とはどういう人間であるかを知るためには、ただ一人の人を必要とする
                    複数は必要としない
                    なぜなら複数になれば、複数の映し方(語り)があり、一定しないから逆に混乱の元になる
                     
                    このようにして肯定してくれるただ一人の人を持てなかったなら
                    その人は後に社会の中で否定に出会ったとき
                    どこにも自分を見いだせずに立ち止まってしまうだろう
                    「自分とは?」の問いかけに答えられなくなるだろう
                     
                    自分の居場所とは、ある自分固有の空間的な場所があるだけでなく
                    何よりも自分を肯定してくれるただ一人の人(場所)があると思えることである。
                     
                    自分の居場所がないと感じている人は
                    やがて「この世から消えてしまいたい」と 思い
                    失踪してしまう可能性が出てくるだろう


                    シニフィアン研究所はこちら  090-1951-1978 むかい あいまで
                    | 不登校・引きこもり | 08:52 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
                    子どもはなぜウルサイのか?
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                      夏休みも後半
                      長い夏休みは子どもがうるさくて嫌だ
                      早く学校や塾へ行って欲しい
                      早く大きくなって手がかからなくなって欲しい
                      そう語るお母さんは多い
                       
                      確かに、小さい子どもが側にいると色々言ってくる
                      「お母さん、おかあさん」としょっちゅう声をかけてくる
                      今年も暑いし、節電だし、尚更暑く感じる
                      子どもに振り回されるのはごめんだと叫びたくなるのも頷ける
                       
                      子どもにとって「お母さん」は世界で一番大好きな対象
                      それは以前にも書いた
                      それ以外に、少し考えてみよう
                      「子どもは本当にウルサイのか?」と
                       
                      たいていの場合
                      子どもが母に要求していることは大したことは無い
                      つまり、
                      大して時間がかかることを要求していない場合が多いのではないだろうか?
                      「お母さん、ジュースちょうだい」
                      「お母さん、一緒に遊ぼう」
                      「お母さん、コレ見て」etc
                       
                      要求が出た時に、すぐにその通りに動けばそれで済む
                      なのに、
                      「ちょっと待って」
                      「後でね」
                      「今、忙しいから」
                      と言ってしまう
                       
                      子どもはお母さんが何かをしている時に要求を出す
                      もっと言えば
                      お母さんが一番忙しい時に限って要求する
                      だから
                      「もう本当にうるさいんだから!」
                      と言いたくなるのだ
                       
                      本当は子どもはうるさくない
                      しかし、
                      お母さんは、自分がしたいことを中断させられるから邪魔だと感じる
                      邪魔されるから「ウルサイ子どもだ」と感じてしまうのだ
                      | 育児・子育て | 23:20 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
                      なぜ結婚しないのか?
                      0
                         
                        「恋愛と結婚は違う」とよく言われてきた
                        恋愛はできても結婚はできない、しないという人がいる
                        では、付き合う異性がいないのか?というと案外そうでもない
                        異性の友達は沢山いるが、結婚となると・・・
                        異性とお付き合いはしても、なかなか結婚に繋がらない
                        永らく付き合ってる人はいるが特に結婚は考えていない
                        「あいつとはくされ縁だ」などと言う
                         
                        周りから「いいかげんに結婚したらどうだ?」と言われたり
                        あるいは「そろそろ結婚しないとやばいよな、、、」
                        「このままでも別にいいんだけど」などと考えてはいる
                        逆に「結婚なんて邪魔くさい」
                           「必要なら一緒に住めばいいし、嫌になれば別れればいいし」
                        これでは結婚はできない
                        結婚しないのではなく、結婚できない
                         
                        それでも結婚している人もいる
                        きっかけは様々だろうが
                        「親がうるさいから仕方なく」
                        「勢いでした」
                        「成り行きで」
                        「結婚と言うものを一度はしてみたかった」
                        最近の傾向としては
                        「妊娠したから」というのが多いようだ
                        これは
                        二人の決断力がないから「妊娠」という手段に頼ったと言える
                         
                        なぜ?
                        一つには≪自らが決断するということが学習できていない≫
                        幼少期から周りから決められて生きてきた
                        自分で考えてやってみる体験が少ない
                        もしやったとしても、周りからとやかく言われ、失敗は許されない
                        失敗でもしようものなら非難轟々
                        こうして、いつしか他者から決められたことに従うという素地が出来上がってしまった
                        自ら決断し、その結果に責任を持つ覚悟が学習できていないのだ
                         
                        とにもかくにも
                        結婚は決断力がないとできない
                         
                        Φ シニフィアン研究所のHPはこちら  http://www3.ocn.ne.jp/~desire4/
                        | 恋愛・結婚 | 10:23 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP