≪整心科学研究所(埼玉県上尾市)≫

自己治癒力により心身を整えていく。量子力学・宇宙物理学・脳科学の観点から精神を捉えた新しい科学に基づいた療法を研究、実践中です。
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    摂食障害ー接触障害
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      過食、拒食、嘔吐、偏食など摂食障害と呼ばれる症状は
      そのまま接触障害へとリンクする
      食=母 という図式 あるいは、 食=性 という図式もある
      これを繋ぐと「食=母=性」となる
      乱暴な物言いかもしれないが
      接触障害は摂食障害となり性障害へと連鎖する可能性が大きいと言える

      最初の摂食と接触は乳幼児期から始まる
      養育者(たいていは母)からの適切な授乳とおむつ交換などにおいて
      不快を快へと変えてくれる体験をする
      ところが、何らかの事情により不快がある一定の期間持続した場合
      あるいは、それが一度であっても閾値を越えた場合
      後に何らかの障害となって表現される可能性が高い

      それが食に表現されたのが摂食障害といえる
      皮膚に表現されたなら、敏感肌、乾燥肌、アトピー性皮膚炎などの皮膚疾患
      行動化ならタトゥー、過剰な異性関係、性倒錯など
      人により、状況により表現方法は多々ある
      思春期には特に女性を中心として「食」に表現されやすい
      拒食は母を拒み、過食は母の取り入れと一体化
      取り入れ、一体化した母は嫌悪する母であるから、一気に嘔吐で吐き出す
      それとスタイルを気にするという肥満と痩せが伴う
      「肥満と痩せ」を「膨張と収縮」と捉えたなら
      それは男性の象徴である器官を連想させる

      ここから「性」とも関連してくる
      ゆえに
      摂食=摂食=性
      という図式が浮かび上がってくる

      ついでながら
      接触ということから言えば
      接触したい欲望を持つ人は「接触事故」を引き寄せる可能性が高くなる

      摂食障害でお困りの方は
      シニフィアン研究所までご相談ください  http://signifiant-lab.com/
      | 育児・子育て | 09:07 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
      夜泣きが止まらない
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        生まれてしばらくの間は昼夜逆転するのが通常です。
        日が経つにつれ、だんだん睡眠パターンが決まってきます。
        また、医学的に何も問題がないにも関わらず、夜泣きが止まらない場合
        以下のような事が考えられます。
        1)お母さんに何か心配事や不満や不安なことがある場合
         ・夫婦間の問題がある(育児に協力してくれない、夫が単身赴任や長期出張でいない、浮気、借金など)
         ・親子間の葛藤や問題がある(嫁姑、自身親に対しての不満など)
         ・核家族で相談相手がいない
         ・近所つきあいでトラブルがある
         ・お母さん個人としての悩みがある
        2)昼間、赤ちゃんにとっての刺激が多すぎることがある場合
         ・兄弟姉妹がいる
         ・不連続な騒音など
         
        3)お母さんの関心が希薄
         ・他の兄弟姉妹に関心があり赤ちゃんに向かない(兄弟姉妹の病気やけが、問題など)
         ・肉親に対する心配事がある
        4)育児に対しての不安や葛藤
         ・お母さん自身の幼児期の葛藤の再燃
         ・過去にわが子を失った悲しい経験がある
         
        5)お母さん自身が他者から注目されたい欲望がある
         ・夫の関心を自分に向けさせたい
         ・実母に解らせたい何かがある
        他にもその要因となることが多々考えられますが、
        赤ちゃんは誰よりも、我が母の精神状態をつぶさに映し出す傾向があるようです。
        赤ちゃんの状態がそのまま育児をするお母さんの時々の心を反映しているといっても過言ではない
        そう言えると感じます。
        お母さんが安心して、日々を過ごせて幸せだと感じていたなら
        赤ちゃんも安心
        お母さんが不安になったら、赤ちゃんも不安を感じてしまう
        それだけ母子の絆が強いと言えるのです
        乱暴な言い方かもしれませんが、
        「赤ちゃんが泣いているのは、お母さんが泣いているからだ」
        と言えるのではないでしょうか?
        シニフィアン研究所のHPはこちら http://signifiant-lab.com/
        | 育児・子育て | 07:45 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
        寄る辺なき存在
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          他者が語らっている言語の中に生み落とされる。
          自分を取り巻く周りの大人達が、その誕生を待ち望んで、様々に語らっていたであろう世界に!
           
          しかし、生まれてすぐには、その言語を理解することはおろか、
          自分の生命自体も自分で維持できない「寄る辺なき存在」である。
          世話してくれる存在を必要とする。
          がゆえに、その世話してくれる存在が乳児にとって、大きな影響を与えるであろうことは難くない。
          その世話する存在は、たいてい「母」その人である。   

          このとき、
          「母はどのような眼差しで自分を見てくれたのだろう?」
          「どのような気持ちでおっぱいを口に含ませてくれたのだろう?」
          「どのような想いで抱っこしてくれたのだろうか?」
          知りたい!!

          それが、
          「ぼくどうやってうまれてきたの?」
          「赤ちゃんってどこから生まれてくるの?」
          という、幼児の質問かもしれない。

          こんな、自らの根源への問いをすべての人は、意識的にも無意識的にも心の内奥に持っているようだ。
          例えば、不登校や引き込もりの人たちも、何らかのきっかけでこの問に向きあっているのではないだろうか?

          母のまなざしを知りたい方は
          シニフィアン研究所までお問い合わせください  http://signifiant-lab.com/ 
          | 育児・子育て | 07:48 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
          狂気のババ抜きーダブルバインド
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            無意識のうちに相手の心を引き裂くような対話をしている場合がある
            「好きにしなさい!そのかわりどうなっても知らないからね!」
            「どっちにするの!早く決めなさい!」
            と怖い顔で言う
            言葉は「好きにしなさい」と言ってるけど
            顔は明らかに「ダメ、私の言うとおりにしなさい」と言ってる
            自分の思う方を選択すれば、「勝手にしなさい」と見捨てられ
            相手の言うとおりにすれば自分にとっては嫌な選択肢となる
            結局、どちらを選択しても辛いものとなる
            このようにして心は引き裂かれてゆく

            それだけで終わらない
            ちょっとでも不満を言おうものなら
            「何言ってるの、あんたが自分でそうすると決めたんだからね!」と念を押される
            このように、表面は自分で決めたかのようでありながら
            結局相手の言うとおりにさせられてしまう
            どちらを選んでも辛い立場に追い込まれることになる
            かといってそこから逃げ出すわけにはいかない
            こういうことをベイトソンは「ダブルバインド(二重拘束)」と言った

            言っている本人はそのことに気付いていない事が多い
            決して悪気があるわけじゃない
            「相手のためを思って言ってるんだ」
            「ちゃんと相手に聞いている、自分の意見を押し付けたわけじゃない」
            言われる方も
            「自分のことを思って言ってくれてるんだ」
            「そんな相手に嫌な気持ちにさせてはいけない」
            と、ますますその渦の中から抜け出せなくなる

            なぜそのようなことが起きるのか?
            言う方も同じく引き裂かれてきた可能性が高い
            ≪自分の狂気を早く他の誰かに譲り渡さなければ発狂してしまう≫
            このような恐れを無意識に抱いていると言えるのではないか?
            まるで
            【狂気のババ抜き】をしているかのように思える

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            | - | 11:53 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
            生きる意味などどこにも無い
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              生きる意味がどこかにあるのではないか?
              そう思って探してみても、そんなものはどこにも無い
              しかし、
              生きる意味はどこにでも転がっている
              これでいいのか?
              生きるとは?
              生きる意味とは?
              今、自分は生きていると言えるのだろうか?
              どこかに自分の生きる意味があるのではないか?
              誰でも一度はこれらの問いかけを持ったことがあるだろう
              あるいは、今なお問いかけ続けているかもしれない
              生きる意味を見つけて、その道を歩んでいる人もいるだろうし
              見出したと思っていたが、一抹の迷いをもっているかもしれない
              生きる意味は人それぞれ
              客観的に決められるものではない
              主観的に決めるものと言えるだろう

              つまり
              生きる意味は自分で決める
              「これが私の生きる意味だ」と!
              自分で自分の生きる意味を規定できたら、それがその人の生きる意味
              生きるに値する値打ちがあるからするのでもない
              他者が認めるからするのでもない
              そんな理由など一切関係ない
              どこかにあるようでどこにも無く、どこにも無いようでどこにでも転がっているものである

              至極簡単!
              私が決めたから、そこに私の生きる意味がある
              ただそれだけのこと

              生きる意味を見出せない方は
              Φ シニフィアン研究所までどうぞ   http://signifiant-lab.com/
              | 生き方 | 08:43 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
              なぜ母子分離が必要か?
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                自分を産んでくれた生身の「母」から心身ともに分離すること
                それは大人になることでもあり、自立(自律)でもあり、社会参入することでもある
                産まれることによって、すべての人の体は母から分離する
                問題は「心」だ
                心理的にいわゆる「母子分離」することが成長する時の一つの課題となる
                ある年齢になると
                「いつまでもお母さんのおっぱいを吸ってるな!」
                「いいかげんお母さんから離れろ!」
                と言われるようになる
                そして、仕方なく我慢するようになる
                無理に離されると思慕の念はより強くなる
                自然に離れるようになるのを待つのが理想だ
                特に乳幼児の離乳は自ら離すまでは与えるのが基本となる
                満足すれば自ら離す
                それまでは年齢に関係なく与えることが望ましい
                体は母から離れ求めなくなったとしても、精神的に離れる事は別のことである
                肉体的に大人になっても、母を求める人の何と多い事か
                「乳離れしてない大人たち」
                いつまでも親元を離れない
                結婚しても毎日のように親の家に出入りする
                何かと相談したり、電話もしょっちゅうするetc
                逆に、親への不平不満を言うのも同じである
                極論かもしれないが
                すべての人は「母しか観ていない」とまで言える気がしている
                ある女性はある時、たまりかねてご主人に
                「わたしはあんたの母じゃない!私とお母さんのどっちを取るの?!」と叫んだという
                これらの事の是非を言うつもりは無い
                誰しも、我を存在せしめてくれた母を思慕するのは当然であり、やはり母は特別な存在である
                ただその母にこだわり続ける心がなぜ問題なのか?と問いかけているのである
                結論から言うと「生きることに疲れる可能性が高い」
                つまり、社会の中で生きていくことが非常にストレスフルに感じやすい傾向にある
                ゆえに、「母子分離」をすることが要請される
                母子分離をするとは、生身の「母」を諦め、対象化すること
                母そのものに求めても得られないと諦め、その母の場を空無にすること
                そうすれば
                その場はどんなものでも埋められる、無限に拓かれた場となる

                Φ シニフィアン研究所のHPはこちら   http://signifiant-lab.com/
                | 育児・子育て | 08:14 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
                生まれ変わるように住み替える
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                  人は何らかの決意をしたとき、必ずと言ってもいいほどに部屋の整理をする
                  子どもなら、おもちゃやマンガ、ゲームやそのソフトや遊び道具
                  机の上や引き出しや本棚など
                  大人になってくれば、洋服や趣味のものや収集したもの、
                  カーテンや絨毯や家具など
                  端的に現れるのは、女性
                  髪型や洋服の色や長さなどの好みをガラリと換える
                  時には家自体を住み替えることまでもする
                  特徴的なのは
                  中途半端なことはしない
                  思いっきり、きっぱり、ばっさり、まったく異なるように変容する
                  それだけ堅い決意をしたとも言えるだろう
                  逆に、
                  気持や気分を変えたいから整理する場合はどうか?
                  それは一時的なものとなる可能性が高い
                  なぜなら、気持ちの整理ができてこそ換えたくなるものであって
                  変えたからといって想いや考えが簡単に変えられ、決意できるものではないからである
                  時と共にまた思い出して再燃する
                  誰かが自発的に整理し始めたなら、何らかの決意をした可能性が高いと言えるだろう

                  Φ シニフィアン研究所のHPはこちら   http://signifiant-lab.com/
                  | 生き方 | 08:54 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
                  「引きこもり」は心の骨折
                  0
                     
                    社会という集団の中になかなかなじめない、参入できない
                    遅れ感や疎外感、見捨てられ感などを感じている
                    そんなとき、あるきっかけにより出てゆけなくなる
                    それぞれ人によって多少の違いはあるものの、結果的に人と交われなくなる
                    いわゆる、引きこもりや不登校、登社拒否、うつ症状と呼ばれる情態
                    これらのことを例えて言えば
                    骨折したときと同じ
                    足元の石ころに気付かず、躓いて転び骨折をしたようなもの
                    その骨折の場所と程度により全治○○週間、○○ヶ月と診断される
                    骨折の場合一番大切なことは
                    まずは骨折箇所の固定と安静
                    その程度によって運動や生活は制限されるし、介助も必要になる
                    そして、リハビリ
                    治癒すれば自然と元の生活に戻ることができる
                    引きこもりは心の骨折
                    その場所と程度によって元に戻るための介助と支援と時間は決まる
                    大切なことは
                    骨折の事実を認め、回復のために必要な援助や支援と時間を見極めること
                    客観的に必要とされるものと主観的(本人の意志)に必要なものは
                    必ずしも同じではないことを忘れない事
                    その人にとって必要な時間をかけること
                    決して焦らないこと
                    骨折したことを悔やんだり、責めたり、焦っても治りはしない
                    適切な処置と安静と援助と時間が必須
                    長引く場合はどんな時か?
                    それは言うまでもないことであろう
                    Φ シニフィアン研究所のHPはこちら  http://signifiant-lab.com/
                    | 不登校・引きこもり | 21:15 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
                    母とは禁止されたものの別名である
                    0
                       
                      すべては母から生まれる
                      生まれる=二度とは戻れない=楽園からの追放→回帰を切望する
                      母の胸に抱かれ、安心しておっぱいを吸う
                      許されるのは一体どのくらいの期間だろう?
                      兄弟姉妹が生まれ、おっぱいを奪われる
                      その小さきライバルをにらみつける眼差し
                      陰でいじめようとする
                      いつまでも甘えるな!
                      と禁止される
                      一人歩きを要求、時には強要される
                       
                      「母」は大なり小なり、禁止される対象としてある
                       
                      しかし、どの人の根底にも「母への郷愁」がある
                      叶えられなかった「怒り」がある
                      「悲しみ」がある
                      それが日々の語らいの中に見え隠れする
                       
                      人は決して諦めないようだ
                      もしかしたら、、、いつかきっと、、、
                      一分の望みを決して捨てようとはしない
                       
                      「あなたが思うような母はドコにもいない」
                      と、何度繰り返しても決して断念しない
                      なぜそれほどまでに狂おしく求めて止めないのか?
                       
                      禁止された存在であるがゆえに
                      二度と戻れぬ場所であるがゆえに
                       
                      楽園に居ることを求める限りそこから逃れる術はない
                      だからこそ、禁止の法を立てるのである
                      しかし、その禁止の札があるからこそ、そこに立ち戻ってしまうものでもある
                      ゆえに、禁止の法の世界の住人となることでかろうじて楽園を断念させられる
                       
                      法は楽園への回帰を禁止し、一方では楽園のありかを示すものともなる
                      そして、禁止されるがゆえに、その向こうにある楽園を思い描くのである
                      生まれた限りはもう元には戻れない
                      しかし、時空を自由に旅することのできる精神はその限りではない
                      ゆえに、禁止の札を立てざるを得ない
                      なぜ、それほどまでに禁止の法が必要なのか?
                      それは社会の崩壊に繋がることだからである
                       
                      社会参入の第一歩が「母からの分離」
                      母とは求めても永遠に手に入らないものの代表となる
                      つまり「母とは禁止されたものの別名」である
                       
                       
                      Φ シニフィアン研究所のHPはこちら   http://signifiant-lab.com/
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                      自己肥大
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                        「人は他者を必要としていない」
                        このように言うと、たぶん反論が出てくるだろう
                        人は人の中で生きている、だから人間と言うんだ・・・
                        確かにその通りではある
                        「自分以外の人」としての他者は多数いるし、また必要でもある
                        社会と言う名の集団の中で生活しているのだから
                         
                        それらの他者には「自分を映す鏡としての他者」と「自分を映さない他者」がいる
                        自分を映す鏡としての他者=自分自身
                        と言える
                        だから必然的に他者はいないことになる
                         
                        では、自分を映さない他者はどうなるか?
                        それは他者ではなく、風景と同じようなものである
                        草木や動物などと同じく「ただそこにあるもの、いるもの」
                        でしかない
                        何らかの関係を持つ=意味づけることがない限り
                        それはその人にとっては「いない」もしくは「ない」に等しい
                        つまり、「ある」「いる」と意味づけたものは自分自身ということになる
                         
                        つまり、どこにも「他者」はいないことになる
                        こうして、他者で構成された社会のはずがどこにも他者はいないことになる
                        人は自分自身しか見出していない
                        いるのは自己肥大した自分、自己拡大した自分しか見ていない
                        どこに他者はいるのか?
                         
                         
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