≪整心科学研究所(埼玉県上尾市)≫

自己治癒力により心身を整えていく。量子力学・宇宙物理学・脳科学の観点から精神を捉えた新しい科学に基づいた療法を研究、実践中です。
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    317)超マイナス思考からの転換―過去から未来へ
    0
      シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
      精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
                 
      今日は、「超マイナス思考からの転換―過去から未来へ」について書きたいと思います

      ≪いつも過去の話から始まり、今で終わり、そこから先が無いね。≫
      この言葉に衝撃を受けました。
      そして、『超マイナス思考なのは、未来に背を向けて後ろ向きに歩いているからだ。』と理解しました。
      だとしたら、プラス思考に切り替えるには、
      『過去に背を向けて、未来に向かって歩けばいい。』と思い至ったのです。

      肉体は生まれてから死に至るまで、時間と共に成長変化していきます。
      ですから、未来に向かって前を向いて歩いていると考えていることでしょう。
      ところが、心の中の身体イメージは必ずしもそうではないのです。
      「どうして超マイナス思考になるのだろう。プラス思考、プラス思考と言っているのになぜ?」と不思議に思っていました。
      そんなある日、
      ≪いつも過去の話から始まり、今で終わり、そこから先が無いね。≫
      の言葉に出会い、納得しました。

      未来はまだ何も書き込まれていない白紙の世界だと考えてみます。
      そこには、ある種の緊張感はあるかもしれませんが、
      希望とあらゆる可能性が広がって見える世界のはずです。
      一方過去は、書き換え不可能な事柄で詰まっています。
      もし「余白」があっても、そこは「余白」であり書き込みはできません。
      そんな過去には「書き換えたい後悔」がいっぱいあるでしょう。
      「あの時、あんなことがなかったなら・・・・・」
      「あの時、違う選択をしていたら・・・・・」etc
      逆に、数少ない喜びに必死でしがみついているかもしれません。

      そんな過去を見ながら後ろ向きに歩いていたら、
      未来という白紙に対して、今見ている過ぎ去った過去の後悔の絵図を投影してしまい
      希望よりは不安が、可能性よりも心配が勝ってしまいかねません。
      そして、そんな過去から目や耳を逸らしたり、閉じてしまったりしたくなります。
      見たくない、聞きたくないと心が叫び、
      その心が「どうせ・・・」という言葉に代表される「マイナス思考」を生み出し、
      不安や心配が増幅してしまって、いつしか超マイナス思考となってしまうのではないでしょうか。
      このように考えたら、
      「プラス思考、プラス思考」と言い聞かせたとしても
      書き換え不可能の過去を見ている限り、
      希望や可能性を持ち続けることは至難の業だといるでしょう。

      ではどうしたらいいのでしょうか。
      簡単です。
      過去を向いている体を、未来の方へと向き変えればいいのです。
      そして一歩を踏み出せば、前向きに歩いていることになるのです。

      するとどうでしょう。
      白紙の世界が見えるではありませんか。
      まだ何も書き込んでいない自分の世界です。
      好きなように、自由自在に創造できる世界が広がって観えます。
      この時、人は今という場に立ち、過去のすべては確定したものとして今を裏側から支えています。
      過去は後悔ではなく、反省と未来への貴重な宝庫となり、経験に裏打ちされた人生という歴史となるのです。
      それが未来へのエネルゲンとなるのではないでしょうか。
      振り返るのは「過去」です。
      決して「未来」ではありません。
      私たちが見つめているのはいつも「未来」です。

      2013年という新しい年を、前向きに歩いていきましょう。
      2012年までのすべてを裏打ちした、新しい白紙のキャンバスです。
      白紙の未来に何を描きますか?
      そう考えるだけでわくわくし、身体の中からエネルギーが湧いてくることでしょう。

      精神分析という対話療法により、自分の無意識に気づき、
      自らの意志で自由に書き換えることが可能です。
      詳しくはこちらを参照ください。シニフィアン研究所http://signifiant-lab.com/
      自分に気付くための講座や教室もあります。http://signifiant-lab.com/#11

      | 生き方 | 14:36 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
      310)木村荘八―大震災と下町の風景
      0
        シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
        精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
                   
        今日は、「木村荘八―大震災と下町の風景―生きる意味 について書きたいと思います。

        11月20日放送の「開運なんでも鑑定団」で木村荘八21歳の油絵が紹介され、
        その時の鑑定士永井龍之介氏が木村荘八について語ったことが耳に止まりました。
        それは
        「木村荘八は1923年の関東大震災後、二度と戻らない下町の風景を描くようになった」
        という内容です。
        木村荘八(以下荘八と呼ぶ)と下町の風景の関係を通して、『生きる意味』を考えてみたいと思います。

        荘八にとって東京の下町の風景は、生まれ育った馴染みの風景であり、
        関東大震災により失われ、二度と戻らない風景となってしまった。
        それまでは、特別な思い入れがあったとの認識はなかったかもしれない風景。
        それが完全に失われ、二度と見ることができないものとなってしまった。
        どんなに復興しても、元の下町は二度と見られない。
        それゆえ、絵や文字で表現するしかない風景となってしまった。
        つまり
        『失ってしまったがゆえに、欲望する対象となった』
        荘八は絵や文字を描くという行為によって、再現する対象となった。
        それが荘八にとって絵や随筆を描く意味=洋画家、随筆家、版画家として生きる意味となった

        荘八にとって生きる意味とは、失われた下町の風景の再現であり、
        それは元の下町ではないがゆえに、永遠に尽きることのない欲望の対象となった。

        この荘八のように、『永遠に失ってしまったもの』があるからこそ
        それをもう一度取り戻したいと欲望する。
        その欲望を持つことが、その人にとっての生きる意味となるのではないでしょうか。

        生きる意味がないと思っている人、
        見つからないと考えている人、
        生き方に迷っている人、
        誰にも必ず『永遠に失ってしまったもの』があるはずです。
        それを探しませんか。
        そこにあなたの生きる意味を見い出せるかもしれません。

        興味を持たれた方はシニフィアン研究所のHPを参照ください。http://signifiant-lab.com/
        精神分析という対話療法で『永遠に失ったもの』を知ることが可能です。
        「私と精神分析」もご覧ください。http://agency-inc.com/analysis6/

        | 生き方 | 17:00 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
        305)透明人間−幽霊(ファントム)になる
        0
          シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
          精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
                     
          今日は、「透明人間−幽霊(ファントム)になる について書きたいと思います。

          「あなたにとって私って何?」
          「私が存在している意味はあるの?」
          このような問いかけをしたことはありませんか。

          これらの問いかけに対して、他者から
          「私にはあなたが必要だ」→「あの人には私が必要だ」
          「あなたに居て欲しい」→「私はここに居て良い」
          と言われた(思えた)なら、
          自分の存在を肯定し、存在している意味を見い出すことができるでしょう。

          ところが、話しかけたのに無視されたり、否定されたり、拒否されたり、途中で遮られたら、
          自分の存在を否定されたように感じたり、
          存在している意味がないと思ってしまう可能性があります。
          少なくとも、語りかけた相手にとって、自分という存在は必要ない。
          つまり、存在している意味はない。
          このように感じてしまう。
          そうすると
          一気に自分の存在が透明になり、その場から消えたくなってしまう。
          これが、ここでいう≪透明人間≫であり、幽霊(ファントム)です。


          悩みを抱えた人たちの話を聞いていると
          「消えたい(逃げたい)」「消えてしまいたい」「居場所がない」という言葉をよく聞きます。
          それは
          体はその場にあるけれど、その場に居る意味がない。
          =透明人間=ファントム(幽霊)と等価であるといえるのではないでしょうか。

          このように、「無視」「否定」「拒否」「切断」は、人を
          透明人間=幽霊(ファントム)=人間でないものにしてしまう可能性があります。
          そうならないためには
          「肯定」「承認」「受容」が必要であり、
          その前提として『よく聴くこと=傾聴』が大切だと言いたいと思います。

          聴いてくれる場所がありますか。
          聴いてくれる人がいますか。
          透明人間になっていませんか。
          幽霊(ファントム)になりつつありませんか。

          シニフィアン研究所のHPを参照ください。http://signifiant-lab.com/
          要請があれば、全国どこへでも出張します。
          詳しくはこちまでお問い合わせください。http://signifiant-lab.com/#8

          | 生き方 | 11:25 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
          298)ハングリー精神と欲望
          0
            シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
            精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
                       
            今日は、「ハングリーと欲望」 について書きたいと思います。

            かの有名なスティーブ・ジョブスもスタンフォード大学の卒業式で、
            「ホール・アース・カタログ」から引用して言いました。
            ≪ハングリーであれ。愚か者であれ。≫と。(http://www.youtube.com/watch?v=XQB3H6I8t_4参照)
            この「ハングリー」な精神が欲望を生み出すことを書きたいと思います。

            「ハングリー精神」の言葉を耳にしたことがあると思います。
            特に、物質的に満たされた時代に生きていると、失われがちだと言われます。
            ハングリーな精神はどのような時に湧き上がってくるのでしょうか。
            例えば、
            満たされていない、足りないと思った時でしょう。
            ということは、
            満たされている、足りている状態を知っていることになります。
            過去の自分と比べたり、他者と比べたりしていることになります。
            つまり、
            「ハングリー」であることを意識するためには
            満たされた状態を知っていることが必要です。
            それと比較して、自分はハングリーであると自覚できるのです。

            自分がハングリーであるからこそ、満たされたいとの欲望が湧いてくる。
            空腹だからこそ、満腹感を味わいたいと欲望するのです。
            ハングリー精神は欲望を湧き上がらせる原動力だと考えられます。
            欲望は人を行動へと駆り立てることでしょう。
            そして、模索や興味、好奇心や探究心を呼び起こすことでしょう。

            このように考えてくると
            人が行動するには、好奇心や探究心が必要であり、
            好奇心や探究心は欲望が動因となり、
            欲望はハングリー精神から湧き上がり、
            ハングリー精神は、満足の状態を必要とする、
            と考えられます。

            ちょっと先まで進んでしまいましたが、
            ここでは、ハングリー精神は欲望を生み出すことを書きたかったのです。
            ハングリーであることは、人を何らかの行動へと繋いでゆくために必須だと言える。
            だからこそ、決して満足しないこと。
            それは逆に、常に比較参照項として満足を必要とすることだとも言えるでしょう。

            満足を知っていますか?
            ハングリーですか?
            欲望を知っていますか?
            あきらめていませんか?

            これらの問いかけを持ったなら
            シニフィアン研究所までお問い合わせください。http://signifiant-lab.com/
            勉強会、講座もあります。http://signifiant-lab.com/#10
            やさしい精神分析講座 http://signifiant-lab.com/#11

            | 生き方 | 15:26 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
            296)バラバラになる不安と恐怖
            0
              シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
              精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
                         
              今日は、「バラバラになる不安と恐怖」 について書きたいと思います。

              何かが一つにまとまらない状態を「バラバラ」と言います。
              辞書の中にも
              『一体であるべきものが離れ離れになったり、統一されていなかったりするさま』
              とあります。
              この中の『一体であるべきもの』というフレーズに注目したいと思います。
              何を言いたいかというと
              『一体』の前提として『バラバラ』があるということです。

              これを『私』に置き換えて考えてみましょう。
              ここで、ラカンの『鏡像段階論』を思い浮かべてください。
              私というまとまりを持った存在は、
              「他者」という鏡(像&語り)によって構成されることを思い出していただけたでしょうか。

              ここから考えると逆に
              『私』という存在は『バラバラ』を前提としているという視点です。
              つまり
              『私』というまとまりは、常に『バラバラ』になるかもしれない不安や恐れを持っている、
              そのように考えられるということです。
              『私』は間違いなく、一人の存在であることを確認せずにはいられない。
              それがなくなると『バラバラ』になるかもしれない。
              そんな不安や恐れから
              人は鏡に自分の姿を映さずにはいられない。

              それが、例えば
              常に鏡を携帯し、取り出して眺める
              歩きながらショーウィンドーに映った自分の姿をチェックする
              誰かに自分のことを注目してもらいたがる
              自分のことを聞きたがる
              人の目が気になるetc
              このような行為へと人を駆り立てるのではないでしょうか。

              この観点から、バラバラ殺人なども
              自分がバラバラであることの行為化では?
              とも考えられると思うのです。

              長くなりましたが、
              人は自分がバラバラになるかもしれない不安と恐れを抱いている、
              だからこそ、自分を確認せずにはいられない、
              その不安と恐怖から逃れるために鏡を必要とする、
              『バラバラ』は『一体』とまさしく表裏一体であるとの観点から考えてみました。

              ご意見、ご質問はシニフィアン研究所までどうぞ
              http://signifiant-lab.com/
              精神世界を「精神分析理論」で知る講座もあります。
              要請があればどこへでも出張しています。

              | 生き方 | 10:45 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
              291)自分が壊れてしまう不安や恐怖ーまとまりを持った自分の解体
              0
                シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
                精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
                           
                今日は、「自分が壊れてしまう恐怖」 について書きたいと思います。

                日々、様々なクライアントと対話していて、気付いたことがあります。
                それは『自分が壊れてしまうかもしれない不安や恐怖』です。
                その不安や恐怖を安心に変えるためには、鏡像体験が必要であることを書きたいと思います。

                「自分が分からない」
                「自分がなくなってしまう」
                「自分がバラバラになりそうだ」
                「音を立てて崩れてしまいそうだ」

                このように語るとき、
                『まとまりを持った一人の自分』のイメージ(像)がバラバラになると感じている瞬間ではないでしょうか。
                もっというと、まさしく
                『自分が解体するかもしれない不安と恐怖』に直面している瞬間だと思うのです。
                そして、
                常にすべての人間に忍び寄っているといっても過言ではないように思えてきます。

                人は、自分の思い通りに事が進まなかった時、
                ふと立ち止まった時、
                不安や恐怖が襲いかかってくる。
                それは、自分がバラバラに壊れるかもしれない不安や恐怖と考えられないでしょうか。
                そんな時、自分の姿を映してくれる鏡が欲しいとの衝動に駆られる。

                それが例えば
                人恋しくなったり、
                誰かに電話やメール、話をしたくなったりする、
                抱きしめてもらいたいと思う。
                もし、そんな人が誰も居なかったなら
                自分で自分を感じるしかない。
                この観点から考えると
                「自傷(リストカット)」「抜毛」「かきむしる」「暴れる」「叫ぶ」などは
                自分を取り戻すための一つの表現方法だと思うのです。

                あてもなく誰かにメールや電話をしないと居られない、
                あてもなくさまよい歩くのも、その一つかもしれません。
                誰かに、自分の姿を映してほしい。
                解体してしまいそうな自分を、一つにまとめてほしい。
                そんな必死の叫びのように観えてくる気がするのです。

                思春期には特にそのような危機が訪れる時期だと言われています。
                その時期までに、統一した自分というイメージ(鏡像)を持っているかどうか、
                それを一番問われるのが、思春期なのです。
                その時期を乗り切るためにも
                幼少期から「まとまりを持った自分」という鏡像体験をする必要があるでしょう。

                ここでは、バラバラになりそうな不安や恐怖は、誰にでもあること、
                その不安や恐怖は、いつでも襲ってくる可能性があること、
                そのような時には、一つにまとめあげる鏡が必要であること、
                それを、フランスの精神分析医ジャック・ラカンは
                『鏡像段階』と呼びました。

                その鏡の役割をするのが≪精神分析家≫であり、その鏡像体験が精神分析(セラピー)なのです。

                シニフィアン研究所ではそれらの理論に基づいた精神分析(対話療法)をしています。
                詳しくはHPをご覧ください。
                性癖、恋愛・夫婦問題の相談も受けています。
                シニフィアン研究所http://signifiant-lab.com/
                非行、引きこもり、暴力など「思春期の悩み」のサイトhttp://signifiant-lab.com/eatingdisorder/
                「不登校の子どもの母より」のサイトhttp://signifiant-lab.com/escape/

                | 生き方 | 11:24 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
                286)人間になるとは
                0
                  シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
                  精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
                             
                  今日は、「人間になるとは」 について書きたいと思います。

                  精神分析的観点から、人間になるとはどういうことかについて考えてみたいと思います。
                  人間と動物の一番の違いは「言語を話すこと」だとよく言われます。
                  この「言語(言葉)を話す」ことについて考えてみましょう。

                  ラカンは、言語の世界を「象徴の秩序の世界(象徴界)」と呼び、
                  この言語の世界へ参入することを『象徴的去勢』を被ると言いました。
                  ちょっと難しいと感じますが、
                  私たち人間の世界では、この象徴的なものが優位を占めているともいえるでしょう。
                  例えば「紙幣」はその代表です。
                  (紙に「10000」と書かれていると、それは一万円の価値を持っていることになります)
                  そして、それが流通(通用)しているのは
                  その価値(意味付け)をその世界内の人が承認しているからです。

                  このように、言語も紙幣と同じように、象徴的なものだとする観点です。
                  ここから、
                  人間になるとは象徴界と呼ばれる「言語の世界」に参入することだと言いたいのです。
                  言い換えると、
                  人間であるとは、言語に代表される象徴秩序の世界に生きてゆくことを意味します。
                  また一方では、人は自らも象徴するように求められているとも言えるでしょう。
                  例えば
                  「何をしたいのか」
                  「何のためにそれをするのか」
                  「なぜ?」
                  「どうして?」etc
                  このように、これらの問いかけに答えるように求められているのです。

                  そして、これらの問いかけの前で立ち止まった時
                  人は悩み、迷い、とまどい、苦しみ、時には応えきれずに叫び、病にもなるのではないでしょうか。
                  人が生きるとは、
                  人間であるとは、
                  これらの問いかけに常にさらされ、答えなければならない
                  そんな世界の中に住んでいるといえるのではないでしょうか。

                  この観点から考えると
                  人間であるがゆえに
                  言語を話すがゆえに
                  悩み、苦しみ、病むのだといえるのではないでしょうか。

                  では、そもそも私たちは、どのようにして象徴界に参入してゆくのでしょうか。
                  このことについては、次回に書きたいと思います。

                  シニフィアン研究所では
                  勉強会や講座を通じて、人間について考えています。
                  興味を持たれた方は、お気軽いお問い合わせください。
                  シニフィアン研究所のHPhttp://signifiant-lab.com/
                  「私と精神分析」も参照くださいhttp://agency-inc.com/analysis6/

                  | 生き方 | 12:30 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
                  263)吉田沙保里・伊調千春の言葉
                  0
                    シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
                    精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
                               
                    今日は、「吉田沙保里の言葉」 について書きたいと思います。

                    レスリング女子55キロ級でオリンピック三連覇を果たした吉田沙保里が
                    テレビで何気なく言った言葉です。
                    『吉田には勝てないだろうな、と思った瞬間からもう負けている』(TVでの言葉だったことしか覚えていません)
                    これは、そのまま、すべての人に当てはまることだと思いました。

                    「気後れ」という言葉があります。
                    辞書には「相手の勢いやその場の雰囲気などに押されて、心がひるむこと。気おじ。」(大辞泉)と書いてあります。
                    まさしく、
                    吉田選手が言った言葉は、このことだと思います。
                    気後れすると、その時点で相手から後れている。
                    その気持ちが、もうすでに負ける方向へと向かっている。

                    相撲の世界でも、「引いたら負け」と言われます。
                    勝つ力士は、やっぱり前へ前へと攻めてゆくとのことです。

                    つまり、『勝つ』と決めること=言語化すること
                    「勝つ」と決めたとき(宣言したとき)から、勝利する道が拓けるのだと思います。

                    そして、
                    わが人生に勝利すること=自分に勝つこと
                    それはまず、決めること=言語化すること
                    次に、
                    それに向かって前へ前へと歩み続けることでしょう。
                    周りからの承認や賞賛のためにではなく
                    自らが決めたことに向かって前進し続けること。
                    このように考えた時、
                    まったく人生そのもの(生きるということ)だと感じたのです。

                    オリンピックを見て、感動するのは
                    メダルを獲ったからだけでなく、
                    選手たちの常に目標に向かって前進する姿に共感するからではないでしょうか?
                    「自分もこのような生き方をしたい」と、感じるからではないでしょうか?

                    伊調千春さんも語っています。
                    『「銀でもうれしくないです」とアテネのときに言って、そのことでバッシングも受けたんですけど、でも、あそこで「銀でよかった」と言っていれば、今、自分はここにいないと思うんですよ。だから、「負けて悔しい」という思いがあるときは、それ以上、また次へ行けるんですんね。「それでよかった」と満足してしまえば、もうそれ以上は行けないんですよ。自分たちの夢はやはり金メダルだし、格闘技というのは…ほかのスポーツもそうですけど、銀メダルは負けて取るメダルなんですよ。例えば陸上とか長距離だったら、銀メダルもうれしいかもしれないですけど、格闘技の銀メダルは負けて取るメダルだし、うれしくないんですね。だから、叶えたいです。オリンピックは、その夢を叶える場所だと思っています。』

                    http://www.oaj.jp/interview/11_wrestling4/005.html より引用)

                    まず目標を決めること。
                    決めるためには、自分の欲望を知ることが大切になります。
                    精神分析に出会って、自分が何を求めているのかを知った人がたくさんいます。
                    興味を持たれた方は、シニフィアン研究所のHP
                    http://signifiant-lab.com/を参照ください。
                    思春期には特に大きな関心事となります。
                    思春期の悩みはこちらです。http://signifiant-lab.com/eatingdisorder/

                    | 生き方 | 10:29 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
                    260)スポーツと攻撃心
                    0
                      シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
                      精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
                                 
                      今日は、「スポーツと攻撃心」 について書きたいと思います。

                      ロンドンオリンピックも17日間の幕を閉じました。
                      日本選手たちの連日の活躍と世界中のアスリートたちの姿に、日本中が湧き立ったことと思います。
                      一方、甲子園では高校球児たちの熱闘が繰り広げられています。

                      どうしてこれほど、スポーツに興じるのでしょうか?
                      スポーツの魅力とは何でしょうか?
                      精神分析的観点から考えたいと思います。

                      結論からいうと
                      スポーツは、誰にもあるとされる「攻撃心」の合法的な発散方法だといえるのではないでしょうか。

                      そもそも、なぜ攻撃心が生じるのか、から考える必要がありますが、
                      それはともかく、自らの内に溜まり続ける攻撃心を留めておくことは非常にストレスとなります。
                      ある閾値に達したら、あふれ出るもののようです。
                      それらは「衝動」とも呼べるものでしょう。

                      これらの攻撃心(衝動)を、うまく水路付けし、放出する必要があります。
                      でないと、心が壊れてしまいかねないからです。
                      また、対人関係をスムーズにするためにも、必須となります。
                      その放出手段の一つが「スポーツ」だといえるのです。

                      解りやすくいうと
                      ・人を蹴飛ばしたい衝動が強い時は、サッカーやキックボクシングなど
                      ・人を殴りたい、叩きたい衝動が強い時は、ボクシングや剣道、野球、テニス、ゴルフなど
                      ・人に抱きつきたい、からみたい時は、ラグビーやレスリングや相撲など
                      このように考えてみると、
                      スポーツは、様々な攻撃心を合法的に放出させる、素晴らしい手段といえるのではないでしょうか。
                      ある限定された枠組みの中で発散すれば、皆から賞賛されるトップアスリートになれるかもしれないし、
                      時として、英雄にもなれるでしょう。
                      ですから、
                      スポーツをした後は、殆どの人が
                      「あー気持ち良かった、スッキリした」と語ります。

                      太古から人は、無意識にこれらの事を知っていたから
                      戦いの刃をスポーツの道具に換えて、競い合ったのではないでしょうか。
                      スポーツは、自らの内なる攻撃心の放出と、
                      周りからの承認と賞賛を得られる、一挙両得の方法だといえるでしょう。

                      自らの内にある攻撃心に気付くこと
                      どのような衝動があるのかを知ること
                      この二つが必要です。
                      体を使って、一つずつ試してみる方法もありますが、
                      的確に知る方法があります。
                      それは「自分の攻撃心(衝動)を知る」精神分析という方法です。

                      興味をもたれた方は
                      シニフィアン研究所のHPをご覧下さい。http://signifiant-lab.com/

                      | 生き方 | 11:53 | comments(0) | trackbacks(0) | ↑PAGE TOP
                      253)生きる意味を創り出す=私は、あなたのために生まれてきた
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                        シニフィアン研究所(埼玉県上尾市&和歌山県和歌山市)の迎意 愛(むかい あい)です。
                        精神分析という対話療法で心身の悩み相談をしています。
                                   
                        今日は、「あなたのために生まれてきた」について書きたいと思います

                        「何のために生まれてきたのか?」→「私は、この人のために生まれてきた」
                        このように断言し、まったくブレない人に会ったことがあります。
                        ここまで断言でき、それを実行し続けられるのはなぜなのだろうか?
                        その理由を知りたいと思いました。
                        彼女を知ってゆく過程で、その理由が理解でき、学びました。

                        人は、自分の姿を映し出せる人に出会った時、
                        それを、自分の生きる意味として書き換えられる。

                        当時、その人(50代女性)が語った言葉を紹介します。
                        ≪出会った時に、「私は、この人のために生まれてきたんだ」と思いました。
                        そして、今も、これからも、私はこの人のために生きていきます。≫

                        お互いが育った環境はまったく違ったようですが、
                        ただ一点、同じものがあると言いました。
                        それは
                        『親から見捨てられた存在だった』です。
                        詳細は避けますが、
                        共に親から忘れ去られ、必要とされなかったとのことでした。

                        その彼の姿に接した瞬間
                        彼女は「私はこの人のために生まれてきたんだ」と確信したと言いました。
                        それから心身両面において支えました。
                        まさしく、自分のすべてを投げ出し、彼のために捧げる献身そのものです。
                        言葉を変えて言うと
                        彼女は、彼の母に徹することを決意したのです。
                        ここが、彼女の素晴らしいところです。
                        単なる同情ではなく、
                        自らが求めていた
                        「母から世話されたい欲望」に気付き、「自らが母になり世話する欲望」へと書き換えたのです。
                        それが、自暴自棄になっていた彼女の、「生きる意味」となったのです。

                        そして、数十年後
                        彼は、彼女のその献身に感謝して、家をプレゼントしました。
                        彼は、彼女と出会って初めて「家庭」を作ったのです。
                        お互いがお互いの中に、自分を見出し
                        相手を喜ばせることで、自分も喜ぶ。
                        まさしく母子関係です。
                        もっと言うと、鏡の関係です。

                        このようにして、彼と彼女は互いに「生きる意味」を共有し合ったのです。
                        彼女の側からみれば、
                        親に見捨てられ、自暴自棄になっていた自らの姿を映す鏡(=彼)に出会ったことで、
                        生きる意味を創り出し、それまでの人生を書き換えた
                        と言えるでしょう。

                        いじめや、ストーカー、自殺、殺人など、
                        生きる意味を見出せず、暴力でしか表現することしか知らないニュースを見聞きし、
                        数十年昔に出会った彼女のことを思い出しました。
                        生きる意味を見出すには
                        自らの欲望を知ることから始まります。
                        それを知ったとき、初めて彼女のように生きる意味を持てるのだと思います。

                        精神分析は、自分の欲望を知る方法です。
                        興味をもたれた方はシニフィアン研究所までお問い合わせください。
                        http://signifiant-lab.com/

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